• 帽子屋の誕生日

帽子屋の誕生日

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大学の卒業制作として、「不思議の国のアリス」をモチーフに書いたお話です。児童書専門の先生のもとで制作したのもあり児童書ちっくな仕上がりですが漢字は気にせずごりごりに使ってます。

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1.帽子屋が暮らす庭

 賑やかなレンガ通りにひっそりと掲げられた、本を読むウサギがモチーフの看板を見つけたのなら、そこが帽子屋――ウィリアム・オルターの店で間違いない。
 帽子屋といってもそれはあだなで、彼の店が取り扱うのは古今東西領域問わぬ書物の山だ。色ガラスを嵌め込んだ古い扉をひいて古本屋《ウサギの庭》の中に入ると、無数の書物がところせましと並べられた空間に迷い込む。あまりの量に雑然とした印象をうけるが、よくよく見ればそれらはていねいに管理されているということがすぐに分かった。
 客がいないあいだ店の主人はたいてい奥の作業机に向かって本を読んでいるか、書き物をしているか。これ以外の作業に手をつけている帽子屋を見たという客は、いまのところひとりもいない。店に客が来て、そこで初めて彼は手をやすめ、必要になったときだけその重たい腰をあげた。
 この古本屋でマルタがはたらきはじめたのは、ちょうど三ヶ月前にあたる。
「これはまたなつかしい顔だ」
 店を訪れた彼女を見てウィリアムはまず、そう口にした。さして大きくもない声なのに聞き取りやすい、と思った覚えがある。
「覚えていらしたんですか?」
「キッシェ。マルタ・キッシェだったか。割り算が苦手で、ひとり答えが合わずに目を真っ赤に腫らしていたな」
 小さいころの恥ずかしい思い出を語られて、かあっとマルタは顔を赤くした。
 ウィリアムは週末になるとかならず広場にでかけ、街の子どもたち――それも学校に行けないような貧しい子どもたちを集めて、彼らに読み書きや算数を教えているのだ。マルタも十になるまでの三年間、彼のもとに通い続けていた。おとなたちは変わり者の酔狂だと言って笑ったが、なにせ帽子屋の話はおもしろかったし、彼はお金もなにも取らないままその教室をひらいていたから、けっこうな数の子どもたちが仕事をしろと怒られながらも毎週広場に集まっていた。帽子屋のそばにいれば大人たちは叱りにこないから、ちょうどいいサボり場所にもなる。
 つい振り返ってしまうような派手な色合いの服で出歩き、風変わりな物言いをするウィリアムを街のおとなたちは嫌っていたが、逆に子どもからは好かれているのだ。だから自然と彼の周りには子どもが集まる。そんな中、いつもはしの方でおとなしくしていたマルタのことなど、きっと忘れているに違いないと思っていた。
 たしかに計算をまちがえるたびにほかの子どもたちから馬鹿にされ、ひどいときには泣いていたりもしたが。まさかそんなことまで覚えられているなんて!
 真っ赤な顔のままうつむいてしまったマルタに対しても、帽子屋は相変わらずの調子だった。
「今年でいくつになる?」
「……春で、十五になりました」
「十五! 道理でずいぶんとおとなびた。それならもうとっくに奉公先を見つけているか。今日は暇を頂戴してきたのかね」
「実は、ですね」
「なんだ」
「先日、奥様のお召し物を、だめにしてしまって……クビになったところなんです」
 おそるおそるそう告げるとウィリアムは丸メガネ越しに呆れはてた、という目で彼女を見て、大仰にため息をついてみせた。予想していた反応とはいえど、居心地の悪さにどうしても肩をすくめてしまう。……むかしからなにか失敗すると、きまって先生はこんな顔をするのだ。だれにたいしてもそうだった。
「またおまえはお得意のへまをやらかしたらしい。前言撤回だ。おまえは小生のところに通っていたころとなにひとつ変わっていないじゃあないか!」
「すみません」
「謝らなくていい。小生はなんにも困っていない」
 小生はな、ともう一度繰り返されてしまえば、返しようがない。うなだれてしまったマルタに、もう一度盛大なため息を聞かせてから男は脚を組んだ。
「今日はなんの用で来た。まさか数年ぶりの再会の手土産に、失業のしらせを持ってきただけではないだろう?」
 おそらく察しているだろうに、先生はマルタの方から言わせようとする。何度かためらったあと、マルタは一度深呼吸して、叫ぶような気持ちで口にした。実際には震えた声しか出ていなかったわけだが。「今日は、先生のところで雇っていただけないか、お伺いしにまいりました!」
 かちこち、かちこちと時計の針が鳴っていた。彼の返事を待つあいだ、マルタは握り締めた自分の手に汗がにじんでいるのを感じた。やはりだめだろうかと諦めそうになった時、三度目のため息がふる。
「計算はもう間違えないか?」
「は、はい」
「文字は読めるな」
「はい!」
 それだけは自信を持って答えられる。家族のなかでも文字を読んで聞かせるのはマルタの役目だったし、奉公先でもめずらしがられていた。
「読み書きのほうばかり得意なのも相変わらずか。三日後に来るといい。仕事を教えてやる」
「いいんですか?」
「なんだ、追い払われたかったのならそう言えば……」
「いいえ! よろしくおねがいします!」
「ああ、いい返事だ」
 右に青、左に黄褐色というちぐはぐな目を瞬かせて、それから先生はにやりと笑った。

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