• 帽子屋の誕生日

帽子屋の誕生日

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大学の卒業制作として、「不思議の国のアリス」をモチーフに書いたお話です。児童書専門の先生のもとで制作したのもあり児童書ちっくな仕上がりですが漢字は気にせずごりごりに使ってます。

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4.レイチェルとママのクッキー

 目が覚めたときにはもうすでに、窓枠の影が床板にくっきりと映りこむくらい外が明るくなっていた。ちょっと寝すぎたかもしれない。それでもベッドから出ようという気になれなくて、結局マルタはもう一度掛け布団のしたにもぐりこんでしまった。
 安息日には《ウサギの庭》もお休みになる。いつもは洗濯婦として早朝からはたらきに出るマルタの母親も、休みの日には家でゆっくり過ごすのが常だった。だからマルタもこの日ばかりはとお布団のなかでうだうだとしたり、そのまま二度寝したりということが多い。
 せっかくの休日だからといって普段ならそのまま寝かせておいてくれるママだけど、今日はめずらしく階段のしたから声をあげてマルタを呼んでいる。
「マルタ、マルタ起きてる? レイチェルが来てるけど」
 その名前を聞いたと同時にぱっと目をあけたマルタを、さらに飛び上がらせるような声が呼ぶ。「なにあんた、まだ寝てたわけ? 相変わらずのんびりしてるんだから!」
 ちょっと元気すぎるくらい大きなあの声は、間違いなくレイチェルだ。「ちょっと待ってて」と声を裏返しながら、マルタはばたばたと慌ただしく着替えて一階の台所へ向かった。ママはそら豆のスープに火をかけていたらしい。キッチンのなかいっぱいにスープのにおいがただよっている。
「おはよう。レイチェル、待たせちゃってごめんね」
「気にしないで。私もいきなり来ちゃったし」
 けらけらと快活に笑うレイチェルは、気のおけない友達のひとりだ。黒い髪を結い上げた背の高い女の子で、笑うと右のほほにだけえくぼが浮かぶ。少し男勝りなところもあるけれど、はたらきものでレンガ通りの人気者だ。いまは白町のとある貴族の屋敷で住み込みの使用人をやっている。……すこし前まで、マルタも同じ屋敷ではたらいていた。
 マルタをやとってくれないか、屋敷の人に紹介してくれたのもレイチェルだった。
「今月の末には忙しくなるからって、お休みもらえたんだ」
 おしゃべりをするときはレンガ通り西の路地、野良猫ばかりが住んでいる空き家の階段で、というのがふたりのあいだにある不文律だ。ひみつの場所に向かいながらマルタは、レイチェルが教えてくれる屋敷の様子に耳を傾けた。しばらく南のほうへ視察に出ていた旦那様が、そろそろ帰ってくるというしらせがが届いたらしい。視察団はひとりやふたりじゃないから、なるほど来月の頭には、白町に限らず王都全体が忙しくなるだろう。
「こんなこと言っちゃあアレだけど、マーサはいいタイミングでクビになったよねえ。あのババア、お召し物くらいで貴重な労働力をへらさないでほしいよ」
「レイチェルみたいに便利な魔法、持ってないもの。私の代わりなんてすぐに見つかるわ」
「ばっかだねえ。マーサみたいにまじめな子がそうそういるわけないでしょ! 本当にあの人って見る目ないんだから」
 道の真ん中で堂々と愚痴をこぼすレイチェルに、マルタは苦笑を浮かべるほかない。
 レイチェルはマルタのことを「マーサ」と呼ぶ。間違えているわけではない。マルタの名前を、この国ではそう発音するらしい。
 マルタは山のむこうにある国の生まれだ。
 うんとちいさな頃にこちらへ来たから、あまり多くは覚えていない。それでも自分がこの国の人間じゃないことは知っていた。だからマルタは魔法も持っていない。この国にきてからしばらくはそのことでずっと馬鹿にされ続けていた。周りのだれとも馴染めずにひとりっきりで遊んでいたマルタに、声をかけてくれたのがレイチェルだ。
「北のほうの名前だもんね。それだけでみんな、マルタはよそものだって思っちゃうんだ」
 ばかみたいだけどね、と続けたレイチェルは、それ以来マルタをマーサと呼ぶ。おかげでお屋敷のなかではマーサという呼び名の方が通りがよかったけれど、奥様や旦那様たちはマルタが北の人間だということを知っていた。
 お召し物をだめにしたことだけが、クビの理由じゃないんだろうな。マルタはうすうす気がついていた。
 久しぶりに来たひみつの場所は、変わらず人手には渡っていないようだった。屋上につづく階段の日当たりのいい場所へ当然のようにふたりそろって腰掛ける。マルタの母がもたせてくれたクッキーをハンカチの上に広げると、レイチェルがにっこり顔でさっそく手を伸ばした。「マーサのママはお菓子職人になった方がいい」と褒めちぎるくらいだから、よほど好きなのだろう。もちろんマルタもお母さんのクッキーは好きだけど。
「でもやっぱり、レイチェルの魔法はいいなあ。絶対にものを壊さないまま運べる、なんて。私なんかいっつも、本のページを落としそうでひやひやするのに」
「……そう! それ、そのことなんだけどマーサ! あんた、帽子屋の店に出入りしてるって本当なの?」
 急に声を上げるものだから、マルタはついレイチェルのほうから遠ざかるようにからだをよじってしまった。
「レイチェル、声が大きい」
「ああごめん。でもその話聞いたとき、びっくりしすぎてしゃっくりがとまらなくなったんだから」
「白町でもうわさになってるんだ……」
 なんとなく予想はしていたが、改めて先生の知名度をうかがい知ることになったマルタは、あの意地の悪い笑顔を思い出してなんともいえない心地になった。
「さすがに、出入りしてるのがだれなのかなんて白町のほうまで流れちゃあこないわよ。あんたのことはうちのママが教えてくれたの」
 根も葉もない尾ひれがついてずいぶんと下世話な内容になっている、というのも見当がついていた。
「なに、帽子屋とつきあってるの?」
「まさか。先生のお店ではたらかせてもらってるだけ。第一、どれだけ歳が離れてると思う?」
「ええ? そんな歳食ってるようには見えないけどあの人。ああでもなんか、しゃべり方はちょっとじじくさいね。年齢不詳ってやつだ」
「年齢不詳。たしかにそうかも」
「……ああ、もう、そんなことはどうでもよくて。……でもまあ、マーサが困ってないなら、いいや。ちゃんとお給料とかもらってる? もし帽子屋になんかされたら手紙送りなさいよ。すぐにぶん殴りにいってあげるんだから」
 レイチェルは心配性だ。彼女らしい物言いにくすくすと笑いながら、大丈夫だとなだめるような返事をする。事実、先生はすこしいじわるではあるけれど、仕事はしっかり教えてくれるし、お給料も悪くない。それどころか、こんなにもらっていいのかとたずねてしまうほどだった。同時に先生には叱られたわけだけれど。
「小生は相応の額を払っている。これで多いと思うなら、おまえにはまだ仕事に対する意識が足りない。どんな仕事でも、こなせばいいというものじゃあないのだから」
 そんなふうに仕事をしているから、奥方様の服をだめにするのさ。そう言われて、なにも返すことができずにうつむいてしまったことは記憶に新しい。
 ふいにその時のことを思い出したマルタは、レイチェルの顔に見入ってそのまま黙り込んでしまった。しばらくきょとんとしていたレイチェルも、耐えられなくなったらしい。落ち着かない様子で肩をすくめてしまった。
「なんなのよ。急にじーっと見られたら、さすがの私もちょっともやっとするわよ……」
「あっ、ごめん。ちょっと考え事。ぼーっとしてた」
「まったく。そういうとこも、ちっとも変わらないんだから」
 もう一度あやまりながら、やっぱりマルタは考え事をしていた。レイチェルの魔法があればよかったのに。クビになってすぐの頃にはよくそう思っていたけれど、私が先生のいうところの「へま」をやるのは、魔法がないからじゃないんだな……。
「あっ」
 とつぜんレイチェルが叫んだ。「ごめん、クッキーぜんぶ食べちゃってた!」
 いつのまにかクッキーの姿が消えてハンカチだけになっていた。なにごとかと思ったら! おかしくてついふきだしたマルタにつられて、レイチェルも笑いだしてしまった。

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