• 帽子屋の誕生日

帽子屋の誕生日

8.色褪せた青い背表紙

「‘それはみな、とても楽しい昼下がりのこと。ゆったり、きままに僕らは流れる。こころもとない僕らのオールをがむしゃらに漕ぐ小さな両腕。僕らの旅を導くために、その小さな手のひらはばかげたごっこ遊びをしている’」
《ウサギの庭》の二階、ことばのとおり本に囲まれたあの部屋で、マルタはひとりで古い詩集を朗読していた。
 古本屋なんてそうそうはやるものでもないから、パン屋や宿屋にくらべるとどうしても手空きの時間が多くなる。帳簿の確認や書棚の整理をひととおりやりおえたら、マルタは二階で本を読むようにしていた。
 先生のほうはといえばいつも一階の作業机に向かって、紅茶をおともにただ黙々と書き物をしてすごしている様子だった。なにを書いているのかはマルタにはよく分からないけれど、王城印の封蝋が用いられた手紙がたびたび届いているのは知っていた。はじめはびっくりしたものだけど、よく考えれば先生は白町の人間なんだから、それくらいおかしいことじゃないのかもしれない。もしかしたら古本屋以外にもなにか仕事をしているのかも。
 いくら高価な品を売買しているとはいえ、マルタに給料をはらいながら生活できるだけの利潤がこの店にあるとは思えなかった。赤字というわけではないが、白町のほうにも家があるという話だし、あれだけで暮らせるはずがない。帳簿とにらめっこをしながらそんなことを考えていたが、ほかにも仕事があるというなら納得がいく。
 そう思うと、本当に先生は酔狂なひとだ。帽子屋と長くつきあえばつきあうほど、彼についての悪口はどんどん否定しにくくなっていく。もちろんそればかりのひとじゃないってことをマルタは自分の目で見て知っているから、先生をきらいになることはいまのところなさそうだ。街のひとと話をするたび、苦笑いばかり浮かべてしまうのは仕方がないとして。
 旦那様とばったり会ったあとのことだ。買い取った本を整理しながら「ああ、そうか」とふいに先生が思い出したように口をひらいた。「キッシェは北の生まれだったか」
 マルタはその一言ですっかり身構えてしまったが、先生はそんなこと気にもしないままマルタにもうひとつたずねた。「いくつくらいまであちらで暮らしていた?」
 そんなことを聞いてきたのは、レイチェル以外だとはじめてかもしれない。一体なにを言われるのかとびくびくしながら、「あまりおぼえてはいないんですけど」と前置きして、四つか五つのころだとマルタは答えた。
「三つ子の魂百まで、とはすこしちがうか」
「えっと?」
「おまえは口があいてない」
「……はい?」
「寒い地方の人間は、できるだけ口を動かさないまま話をするそうだが。そこまで極端じゃあないが、おまえも口があいてない。声がこもるのはそのせいだな」
「……そうなんです、か?」
「よく客に聞き返されているだろう。緊張してよけいに舌が回らなくなっているんだろうが」
 なんてことないといった様子でそれだけ言って、先生は満足したらしい。拍子抜けしたマルタはといえばしばらくなにも返せずに、そのままぽかんと先生の作業を眺めて、サボるなと怒られた。
 先生にかかれば、生まれた国の違いなどその程度のものらしい。いま思い出してもおかしくてついクスクスと笑ってしまう。
 つぎの日からマルタは、詩を声に出して読む練習をしはじめた。
「‘思い出がもつ不思議な輪のなか、遠いところで手折られ褪せた、巡礼者たちの花冠のように。’――おーわり」
一日のノルマを終えたあとは好きな本を読むときめている。詩集をもとの場所にしまおうとマルタは椅子から立ち上がって、スカートの裾をととのえながら考える。昨日まで読んでいた本は読み終わるのに三日かかったけど本当におもしろかった。今日からなんの本を読もう。
 詩集をもとの位置にもどしたマルタは、読んだことのない本を手当たり次第、取り出してはページをめくり、それをもどしてはまた次の本をといった具合に物色しはじめた。こうやってその日の気分に合う本を探すだけで、マルタはとてもしあわせな気分を味わえる。この部屋に出入りするまでマルタは全然意識していなかったけれど、自分はいわゆる本の虫らしいと、最近になってようやく彼女は自覚した。
 彼女にとってこの部屋はまるで宝島だ。量が量だし、どれだけ読んでもまた新しい本を読むことができる。先生に言えば家に持ち帰っても怒られないから、最近は母親にまであきれられるくらい本を読んでいる。ついつい浮かれてしまって、先生に肩をたたかれるまで夢中になって読みふけることもしばしばだ。ページをめくっているだけでいつのまにか時間がすぎている。
 この辺りの本はまだちょっと難しいから、別の本棚をあさってみようかな。そう思っていたマルタは、たったいま取り出した本のページをひらいて、息をのんだ。
 
 公暦四二年二月八日
 くもりのち雪
 
 オーウェルの誕生日だというのに生憎雪が降り始めた。本人は雪を見て大層はしゃいでいたが、寒い日は彼女の肌がますます青白く見えるので、周りの者はつい心配してしまう。特にグラバーはパーティーの間も始終気になって仕方がない様子だった。
 そういえばグラバーがいつのまにかオーウェルのことをサーラと呼ぶようになっている。どうやらうまくやったらしい。ジュリアも自分のことのように喜んでいた。こころなしかローレンスも楽しそうにしていたし、パーティーはすばらしいものだったと思う。
 パーティーのあと、どうやら酒が回って眠ってしまったようだ。グラバーが送ってくれたのだろう。彼はいま客室でぐうぐうと寝息をたてている。

 
 入って左の奥に、青い背表紙の本がならんでいるが。そこだけはさわらないように。
 すっかり浮かれていたマルタは先生のことばも、背表紙の色を確認するのも忘れてしまっていた。装丁に使われている布紙は、だいぶ色あせていたがまちがいなく青色だ。どう考えたってこれが、さわってはいけない本にちがいない。
 だけどマルタが沈黙したのは、約束をやぶってしまったからではなかった。
 これはだれの日記なのか。
 公暦四二年なんて、マルタの母親すら生まれていない時代のことだ。いまは公暦一一三年。引き算をすると七十一年前の話になる。先生の日記であるはずがない。
 書棚の一角を占領している青い背表紙の本は、両手両足の指でも足りないくらいの冊数だ。先生の足音がしないのをたしかめてから、マルタはもう一冊、ほかの青表紙を取りだしてみた。おそるおそる開いてみれば、やっぱりそれもだれかの日記だ。とてもまめなひとだったのだろう、どのページを見てみても、一日たりとて日付が飛んだ箇所がない。
 もう一冊手にとって調べてみると、こちらの日記はもっと古い。帝暦七四九年、今から百五十五年もまえのことだ。
 わけが分からず混乱していたマルタだったが、階段を上がってくる足音にはっと我に返った。急いで三冊の日記を元通りにしまい込み、反対側の書棚のまえに立ったところで、扉がノックされる。マルタの返事を待つようなひとではない。先生が扉をあけて中をのぞきこんだ。
「キッシェ。すこし出かけなければならなくなった、店番を頼む」
「はい。あの、えっと。この本借りていってもいいですか?」
 どんな本なのかは知らない。中身も見ずに引っこ抜いた。
「もちろんかまわないが」
「ありがとうございますっ!」
「……おかしなやつだな。そんなにその本が読みたいか?」
「ええ、とっても。おもしろそうなので、つい」
「……ふうん」
 先生はずっと訝しんでいたけれど、それ以上なにもきこうとはしなかった。ばくばくと鳴り響く心臓に耐えながらしどろもどろに先生を送り出したマルタは、そのままその場にへたりこんで、いままで息を止めていたかのような呼吸をしはじめた。
「しぬかと、思った……」
 タイトルもまだ見ていない本を抱きしめながら、二度と青表紙の本にはさわらない、そうマルタは心にきめたのだった。

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