• 帽子屋の誕生日

帽子屋の誕生日

10.先生がいなくなった

「納得いかない」
 三時の鐘をききながら、マルタはベッドのうえで枕を抱いたままむくれていた。「失業祝い」と言いながらやってきたレイチェルはベッドのよこに置いた椅子に座って、マルタを見下ろしため息をついている。明日の午前までおやすみをもらえたらしい。ひざのうえにマルタの母親のクッキーを広げたレイチェルは、あきれたという顔を隠そうともしない。
「だから、旦那さまか奥さまあたりに脅されたんじゃないの? とくにババアは、おぼっちゃまのこと目に入れても痛くないってくらいかわいがってるんだし」
「……レイチェルって、仕事のときはあんなにおしとやかなのにね……」
「地のままで喋ってたら、マルタよりさきにクビになってるって。……いやでも、なんでそんなに機嫌悪いのさ。まえクビになったときもそりゃ落ち込んでたけど」
「だって、まえは理由が分かってたもの。でも、先生にクビにされた理由が全然思いつかない……」
 マルタが先生からクビを言い渡されたのは、さきおとといのことだった。いつもどおり仕事を終えて、いつもどおり家へ帰る支度をしていたら突然そう言われたのだ。うっかり落としそうになった上着を押さえながら、マルタは理由をたずねた。
「理由が分からないか?」
「分かりません」
「……パリー夫人から脅迫まがいの手紙がとどいた。あとは察してくれ。小生とて我が身はかわいい」
 すぐにマルタはそれがうそだと見抜いたけれど、先生はそれからあとはずっと聞く耳もたずで、最後までなにも教えてもらえないままだった。退職金だけつきつけられて、なかば追い出されるようなかたちで店を出され、先生と会ったのはそれきりだ。
 つぎの日もう一度《ウサギの庭》に来てみればドアには休業のお知らせ、だ。逃げられたとすぐに分かった。そして先生が逃げるということは、クビの理由がほかにあると言っているようなものじゃないか。
「先生のいーじーわーるー……」
「私から言わせてみれば、あんだけぼっちゃんにケンカ売って、なにもないと思えるあんたがよく分からないわ……そこまであの帽子屋を信じられるのが不思議よ」
「信じてるというか……あの先生が、素直に奥さまの話を聞くとは思えなくて」
 なにせ旦那さまを子犬呼ばわりするひとだ。あの場にもし帽子屋がいたら、フィリップぼっちゃまが一体どうなっていたのか、あまり想像もしたくない。あのときのフィリップさまは湯気が立つのではというくらい怒っていたけれど、先生がいなかった分マシだったんじゃないかとさえ思う。
「あーあ、帽子屋と長くすごしたばっかりに。私のかわいいマーサが変わっちゃったわ」
「……変わったかな」
「まあね。でもほら、マーサはちょっと押しがたりないところがあったから、このくらいでちょうどいいのかもね。まあ気を取り直して、新しい職場でも探しなよ」
「うー……でもやっぱり、理由はききたいかな。新しいお仕事探すにしても、どこが悪かったのか分かれば、なおせるならなおすし。それが無理なら開き直るしかないし」
「……やっぱりあんた、変わったわ……」
 頭を抱えてしまったレイチェルのひざにはひろげていたクッキーは、あと三枚しかのこってない。「失業祝い」なんて言いながら、マルタのママのクッキーを食べているのはレイチェルだけだ。
「のこりふたつもーらい」
「あっ、ずるい! 一枚は半分こでしょ?」
「レイチェルはさっきからずっと食べてたじゃない」
 ふたりでクッキーの取り合いをはじめたところで、「おおい」と階段のしたから靴屋の主人の声がした。さきに食べちゃだめだからね、と念をおしてから、マルタは部屋を出てしたへおりる。おじさんはその手に一通の手紙を持っていた。おじさんはあまり字が読めないから、マルタのことを呼んだのだろう。それにしても紙封筒にはいった手紙なんて、赤町らしくないお手紙だ。いったいどこから出されたのだろう。
「お手紙がきたのね、おじさん」
「ああ、いつも悪いね。お友達も来てるのに」
「いえ、気にしないでください」
 おじさんから手紙を預かったマルタは、宛名を見てすぐおどろいた。東の水路通り、デニス氏の靴屋二階、マルタ・キッシェさまへ――自分にあてられた手紙だった。もしかして先生からの手紙だろうか。そう思って裏返すと、封じ目に赤い封蝋がつけられている。
 自分あてのものだからとおじさんから手紙を受け取り、マルタは急いで部屋に戻った。
「れ、レイチェル。ちょっと、これなんだと思う?」
「これって……手紙なんて見せられても、私に分かるわけないじゃない」
「そうじゃなくて、これ、この封蝋!」
 押しつけるように封筒をつきだして、そこでようやくレイチェルは手紙を見てくれた。そしてマルタのいうとおり封蝋をたしかめて、目を丸くする。
「これ……パリー家の紋章印でしょ?」
「やっぱり、そうだよね? このまえのこと言われるの?」
「それだけのためにわざわざこんな上質の封筒使うわけ? たかだか赤町の人間に、家紋つけて?」
 封蝋に紋章印を押すのは偽造やすりかえを防ぐためで、公式文書みたいな重要な書類をやりとりするときに使うのだときいている。
「……読めないから関係ないけど、私は見ないほうがいいわよね?」
「多分」
 唐突なできごとのせいで、部屋に沈黙がおちる。マルタもレイチェルも、クッキーのことなどすっかり忘れてしまっていた。そのままどのくらい時間が経ったのかよく分からないけれど、さきに口を開いたのはマルタだった。
「ああ、でもこれ……」
「ん?」
「多分、先生のことだ。なんだ、そっかあ」
 急に表情をやわらげたマルタのよこで、こんどこそレイチェルはなんと言っていいのか分からずに、複雑な表情で黙り込むしかなかった。

 パリー家の屋敷におとずれるのは本当に久しぶりだった。
 西階段から白町に上がりそのまま道なりにしばらく進んで、三つ目の大きな角を左に曲がればもうパリー家のお屋敷だ。
 だけどまさか招かれる側として、この屋敷に入ることはないと思っていた。
 案内をしてくれた使用人は、マルタがはたらいていたころにはまだここにいなかったひとだった。旦那様が配慮してくださったらしい。もちろんマルタは案内がなかったとしても自由に屋敷を歩きまわれただろうが、世の中には形式というものがある。
 導かれるまま応接間に通されたマルタはふかふかのソファに腰掛けたとたん、なんだか落ち着かない心地がして、使用人が旦那様を呼びに出て行ったあともずっと背筋を伸ばしたままでいた。以前はマルタもこの屋敷で、彼女たちのようにはたらいていたのだ。
 まねかれる側になっても、ちっともえらくなった気分にはならないものね。暖炉やランプの明かりを眺めながらマルタがぼんやりそんなことを考えはじめたところで、パリー伯爵が現れた。
「よく来てくれたね、マルタ。冷えるようになってきたけど体のほうは大事ないかい?」
「おかげさまで。ご無沙汰しております、パリー卿。先日はご子息に対してとんだご無礼を……」
「ああ、そのことなら気にしないでくれ。私も家内も、すこしあの子を甘やかしすぎているからな。君が叱ってくれたときいて、ありがたいと思ったくらいだ。帽子屋なんて見物したかったとさえ言っていたぞ」
 ごく自然に旦那様がその名前を出したので、思わず聞き流してしまうところだった。
「ウイスキーでも平気かな?」
「あ、お気遣いありがとうございます。大丈夫です」
「さすが北の生まれだな。あれは酒を飲まないから、いつも紅茶を用意しないといけない」
 使用人からグラスを受け取り、お礼を言ってマルタは薄い水割りを一口飲んだ。あせらなくてもいい、そう自分に言い聞かせる。旦那様が話したがっていることは、たったひとつだ。そしてそれはマルタの知りたいことでもある。
「君は……先日、帽子屋の店をクビになったそうだね」
「はい」
「その理由は聞かされたかい?」
「一度たずねてみたんですが、……奥方様のほうから先生に、私をやめさせるように言われたと、教えられました。ですがそんな話はありませんよね?」
「……やはりでたらめなことを言って、あれは逃げていったのか。もちろん、こちらからそういった話をもちかけた事実はない」
 分かってはいたけれど、一応確認しておかなければならない。どんなことでもひとつひとつたしかめながら話を進めるようにとマルタに教えたのは先生だった。そうしておけばあとのいざこざを減らすことができる。もちろんそれは商談での話であって、旦那さまとのあいだにいざこざが起こるとはあまり思わないのだが。
「……突然なにを、と思うかもしれないが。マルタは、彼の魔法について聞いたことはあるかな」
 ふいに話題の方向が変わったので、マルタははたとことばに詰まったが、すこしだけ考えたあとはすぐもとどおりになっていた。
「それも一度だけたずねたことがありますが、はぐらかされてしまって。結局どんな魔法を先生がお持ちなのか、私は知りません」
「なるほど」
 ひとつ長い息をはいてから指を組みなおした旦那様は、しばらくなにか思案している様子だった。ぱき、ぱきと薪がちいさくはぜる音が部屋に響くのを、マルタはじっと聞いていた。
「理由を知れば君はきっと、いま以上に怒ることになるだろう。だけどなにも教えないまま姿を消すというのは、君に対してとても失礼だと思うし、それに私は君にいろいろと借りがあるからね。君さえいいと言えば、私が知ってることは全部君に教えよう」
 マルタはすこしも迷わなかった。「よろしくおねがいします、旦那様」
 すこしだけ笑ったあと旦那様は、ちょっと長くなるかもしれないと先に断ってから、マルタにゆっくり語りはじめた。

「たいした話じゃないんだ。ただ、ウィリアム・オルターの話をしようと思ったら、ずいぶんと昔の話をしなければならない。彼が持つ魔法についても触れなければいけないけれど、これもまた夢物語のような魔法でね。聞いてすぐには信じられないひとも多い。――ウィリアム・オルターが生まれたのは帝暦七〇八年。まだこの国が帝国領のひとつだったころ……ちょうどいまから百九十六年前になる――」

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