• はこにわのつくもがみ

春霞の恋

  • くりつる
  • へしさに
  • 捏造
  • 不仲な男士有
  • BL表現有
  • 性表現有

 生まれた頃の記憶は曖昧だ。
 言葉とは何なのかも知らぬまま、ただぼんやりと微睡んでいたそれの名前を、大倶利伽羅廣光という。相州伝の廣光が打った刀で、佩表に彫り込まれた倶利伽羅竜の意匠に因んで不動の名を付けられた。名付け親は松平陸奥守、すなわち奥州の傾寄者、伊達政宗その人である。石垣修築の褒賞として徳川家より拝領したのは、政宗公ではなく彼の嫡男であるのだが、それをめっぽう気に入ったのはむしろ父親の方だった。独眼竜と呼ばれた男だ、その刀身を駆け昇らんばかりの倶利伽羅竜に、何か感じるものがあったのかもしれない。実際には戦場で佩いたことなど無かったはずのそれが、政宗公が出陣の際に必ず佩刀していた刀であると後世では伝えられている辺り、彼の気に入り様がよく分かるというものだ。ともあれ大倶利伽羅廣光はそれ以後長い時間を、伊達家の刀として過ごすことになる。
 後になってそれ自身が思うことだが、恐らくそれに化生としての命が宿ったのは、伊達の家で大倶利伽羅の名を与えられたが故であろう。名前は呪である。そうでなくとも人の情は呆れるほどに強いのだ。触れるてのひらや囁く唇、視線を注ぐまなこからぼろりとこぼれる人のこころに、とぷりと浸ってしまうが最後。さすればたちまち、ただの器物が命を帯びる。
 しかし、ほとんどの付喪神はそれだけである。自我と呼べるほどの意識は持たぬまま、ただ己が人に使われ、飾られ、壊されるのをじっと眺めて、それだけだ。名付けられたばかりの大倶利伽羅も多分に漏れず、外界と己の区別がつかぬまま、見えるものをただ見ているような具合であった。後の世を生きる人であれば、その様子をまるで赤子のようだと例えたかもしれないが、それは刀で、時代も古い。
 伊達には他にも燭台切光忠や太鼓鐘貞宗といった刀が命を帯びてそこに在ったが、それらも幼子のようなたどたどしい言葉を、人には聞こえぬ声で話す程度のものだった。大倶利伽羅よりは確りとした意識を持っていたには違いないが、霞のように刀の身に纏わりついているような命だ。柔らかな肉を持つ生き物のような、手足や目鼻、そういうものを持った付喪神は、刀に限らずいなかったように思う。――彼が伊達の家に来るまでは。
 人の似姿を持つ付喪神を初めて見たのは、燭台切光忠が伊達家を去った後のことである。そして大倶利伽羅がはっきりとした自我を持つに至ったのは、その付喪神に出会ったからに他ならなかった。
 真っ白な男だった。
 纏う衣や骨の形が浮き出る首元、結いもせず襟足だけ伸ばした銀糸の髪。どこをとってもその男は白かった。金の装飾や下に重ねた紺の着物、白以外の色がない訳ではないのだが、とにかく白い、そういう印象を見る者に与えるいでたちである。とはいえ伊達の家には彼の姿を捉えられる者などおらず、彼はどこか退屈そうな顔で出入りする人々を眺めているようだった。
 初めてその姿を見た己は、おそらく驚いていた、と大倶利伽羅は思う。煮え切らない言い方になるのは、その頃もまだ大倶利伽羅は現身を包むもやのような命であったからだ。しかし白い男の影は、ことばやかたちを持たぬそれの目にも物珍しく、そして美しかった。
 しばらくの間それは、白い付喪神をぼんやりと見つめるだけの日々を過ごしていた。そしてそのとろりと微睡むような毎日は、彼によって終わりを迎える。
「やあ、驚いた。貞宗の他にもいるじゃないか」
 そう声を掛けてきた男の声は、儚げな美しいかんばせから想像もできぬほど快活で、凛とした響きを持っていた。金色の目を楽しげに輝かせながら、うすもやでしかないそれに筋張った白い手を添えて、燦然と笑む。その美しい微笑みを見た瞬間に、それは大倶利伽羅としての意識を持った。
「貞宗よりもいくらか若いようだが、名はあるか?」
 己に問うているのだと気付き、それは初めてことばを話した。ごうは、おおくりから。めいは、ない。それだけのつたない言葉に、それでも白い男は満足気に笑みを深める。
「そうか、そうか。大倶利伽羅か。俺は鶴丸国永だ。鶴丸と呼んでくれ、大倶利伽羅」
 くふふと忍ぶように笑いながら鶴丸がもやをかき混ぜるように細い指を動かすと、大倶利伽羅はどこかむずむずと落ち着かない心地になって、男の指から逃れるようにゆらりと揺れた。するといよいよ彼は面白そうに声を立てて笑い始めるので、どう返せばこの男は笑いやむのだろうかと、そう考えたのを大倶利伽羅は昨日のことのように思い出せる。
「この家には俺らが見える人間はいないようだからな。退屈で死んでしまうかと思ったが、そうはならずに済みそうだ。よろしく頼むぜ、大倶利伽羅」
 鶴丸は人によく似た指先で、大倶利伽羅の命を撫でた。大倶利伽羅はまだ、うすもやのような命であった。
 
 
 
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「鶴丸国永ってどんな奴?」
 大倶利伽羅にそう訊ねたのは、政府からこの屋敷の一切を任されている年若い娘である。時は二二〇五年。時間移動の技術により歴史修正主義者が出現、これに対抗するべく政府は刀の付喪神を過去の戦線に送り出す作戦に出た。どういう理屈でその方法が選ばれたのか、大倶利伽羅には分からない。政府は付喪神を呼び降ろすことのできる、すなわち巫覡の力を持つ人間を全国からかき集め、そしてそれぞれに本丸と呼ばれる屋敷を与えた。そこで刀の付喪神を呼び降ろし、彼らを戦力として歴史修正主義者と戦うよう命じたのである。「統括と維持、拡張。人事と総務と経理を混ぜあわせたような仕事だよねえ」といつか娘が言っていたが、それも大倶利伽羅にはよく分からない。分かるのは彼女がその審神者と呼ばれる役に就いていることと、己が彼女に呼び降ろされた付喪神のひとりであるということだ。つまりこの娘は大倶利伽羅達の主ということになる。
 普段彼女の近侍として傍にいるへし切長谷部は、遠征のため留守にしている。代理として指名された大倶利伽羅が書類仕事を手伝っている最中に、冒頭の問いが投げかけられた。大倶利伽羅は顔を上げて主の方を見たが、彼女はタブレット端末から視線を離さないまま、人差し指で紙をめくるような動作を繰り返し、演練の様子をおさめた写真を確認しているようだった。画面に白い影が映っているのを見つけて、大倶利伽羅は眉を寄せる。誰なのかはすぐに分かった。この本丸に、まだ彼はいない。
「……何故俺に訊く」
「うちじゃ一番詳しいかなと思って。鶴丸国永が長く一処にいたのって、伊達家と今の畏きおうちくらいでしょ。うちにはまだ御物も太鼓鐘貞宗もいないし、みっちゃんは鶴丸国永が来てすぐに水戸に嫁いだか、来る前に嫁いだんだかのどっちかだったような?」
 元々歴史を追うのが好きだったという彼女は、審神者になった折に刀の来歴を手当たり次第調べたそうで、この本丸にいる付喪神だけでなく、他の本丸で確認されている付喪神にまつわる話もおおよそ覚えているらしかった。座卓の上に置かれているパソコンとやらは随分と便利な代物のようである。
 確かに、今この本丸に呼び降ろされている付喪神に限れば、鶴丸国永と共に過ごした年月は大倶利伽羅が一番長いだろう。付喪神としての鶴丸国永について何か知りたいのであれば、大倶利伽羅に話を聞くのは自然な流れである。しかし、この主がかの太刀についてを彼に問う理由は、他にあるという気がして仕方がなかった。この人間の娘はどうも、色々と敏すぎる節がある。
「……何故、それを訊く」
「うーん、それを訊いちゃうのか倶利伽羅や。答えてもいいなら答えるけど」
「……答えなくていい。答えるな」
「うむ。賢明というか、自覚あったのね君。それならまあいいんだけどさ」
 ――先日の演練で、大倶利伽羅はこの本丸に呼ばれて以来、初めて鶴丸国永と対峙した。
 他の本丸で呼び降ろされ顕現した彼の姿は、かつて伊達の家で見たそれとほとんど変わっていなかった。時代の流れもあってか纏う衣はいくらか違うようだったが、その姿は相変わらず、目映いほどに白かった。
 演練はこちらの負けで終わった。向こうの練度がだいぶ高かったのもあるし、この本丸の付喪神は日頃から演練では勝ちすぎないようにと、主から言いつけられている。負けたこと自体にはさしたる問題はない。普段通りであったと言えよう。しかしこの審神者は大倶利伽羅の様子が常と違ったことを、目敏く察したらしかった。
 大倶利伽羅にとって、鶴丸国永は特別なのだ。その姿を見て、息を止めるくらいには。
「しかし他の審神者の話聞いてると、君がそれほど気にするのが不思議に思えてくるんだけど。本当どんな奴なの、鶴丸国永って」
「……他の連中はどんな風に話をしてるんだ」
「鼻眼鏡つけて躍り出るびっくりじじい」
 ちなみにこちらが鼻眼鏡でございます、とタブレットの画面を大倶利伽羅に見せながら審神者がどうでもいい補足をする。作り物の鼻と眉、そして髭が取り付けられた眼鏡。大倶利伽羅は無言で天を仰ぎ、深々とため息をついた。
 どこの本丸の鶴丸国永なのかは知らないが、遊びすぎだろう、爺さん。
「……、……伊達にいた頃は、ここまでふざけてはいなかったと、思う」
「…………うん、まあ、ほら。個体差ってあるから。呼び出した審神者の影響が少なからず出るらしいから……」
「……退屈を嫌う男だったからな。……それに、お節介な爺さんだった」
 よくよく考えてみれば、幼い姿をした短刀達や宗三左文字のように世を飽いている者達を前にして、あれが張り切らないはずがない。成程、そう思えば違和感はだいぶ薄れた。少々はしゃぎすぎている気がしないでもないが。昔を思い出して、大倶利伽羅は目を細める。
 当時大倶利伽羅は、伊達の家で孤立していた。
 これは後々言葉を使うようになってから知ったことだが、かつて伊達家にいた燭台切光忠は、無銘の新入りのくせに政宗公から気に入られた大倶利伽羅を、あまり快く思っていなかったらしい。人の身も持たぬ刀が悋気を覚えるのかと大倶利伽羅はいっそ感心したものだが、それだけで済ますには、燭台切の影響力は大きかった。伊達の家でも古株にあたる付喪神であったし、なにせあの織田信長が愛した長船派の祖、光忠が鍛えた一振りで、政宗公自らが号を与えた、美しく、よく切れる太刀である。それにその頃の大倶利伽羅は何かを言い返せるほどの自我や言葉を持っていなかった。他の付喪神たちは燭台切に追従した。声を持たぬ無銘の付喪神として見下す反面、伊達家春の三番と採番された大倶利伽羅を妬んでいたようだった。太鼓鐘も同じく無銘であったが、元の持ち主の影響かその短刀は立ち回るのがうまかった。結果、大倶利伽羅だけが知らぬ内に輪の外にいた。
 鶴丸はそんな大倶利伽羅に話しかける、唯一の付喪神だった。
「君も早く人の真似事をすればいいのに」
 ころころと楽しげに笑いながら、かたちなき大倶利伽羅を撫でる男は美しく、同じく鋼から生まれたものだとは到底信じられないほどだった。こそばゆさを表に出さぬようにしながら、ひつようない、と素っ気なく返した大倶利伽羅に、鶴丸は笑ったまま大仰に、しかし至極残念そうに「つまらんなあ」と声を上げた。
 ならば、たいこかねのところにでもいけばいい。鶴丸は大倶利伽羅だけでなく屋敷中の付喪神に声をかけ回っていて、そうこうしている内にいくらかの付喪神が、彼につられるようにして人の似姿を取るようになっていた。太鼓鐘も早々に利発そうな男の児の姿をとり、以前よりずっと明瞭な話し方をするようになっていた。あれとはなすほうが、たいくつしないんじゃないのか。
「あいつは確かに楽しい子だが。俺は君とも同じように話をして、同じように並んで歩いてみたいのさ」
 おれは、ひとりでいい。むしろ己と付き合うことで鶴丸の立場が悪くなっては具合が悪い。元よりひとりでいることは苦ではなかったし、人の姿を羨ましく思うこともなかった。そもそも大倶利伽羅がこのように言葉を使うということすら、他の付喪神は知らないのではないか。誰かと交わることを大倶利伽羅は望んでいなかった。ただ、その白い男の姿をひっそりと眺めていられれば、それで良い気がしていた。
 言葉数の少ない大倶利伽羅の心情を、鶴丸がどこまで汲み取っていたのかは分からない。
「君は本当に良い子だな」
 微笑んだ鶴丸はその細い両腕をぱっと広げ、もやを囲い込むように大倶利伽羅のいのちを抱いた。驚いた大倶利伽羅がゆらゆらと揺らめいても、くふふと笑うばかりで離そうとしない。
「君の可愛さを俺だけが知っているというのも気分は良いんだがな。こんなに良い子が誰にも構われず眠ってばかりじゃあ、どうにも勿体ない気がしてなあ」
 もし憐れまれていたのであれば、大倶利伽羅は突っ返していたに違いない。だが鶴丸は心底なにかを惜しむような声音で勿体ない、と繰り返すので、大倶利伽羅をどう返せば良いかもわからず、その白い腕の中でうろたえた。
 それに、と続けて鶴丸は囁いた。
「この前、ご当主が君の手入れをしているところを見させてもらったが、君、見事な倶利伽羅竜じゃないか。あんなに見事な龍を彫られた君が、もし人の姿を取ったらと想像するのが、俺は楽しくて仕方がないのさ。どんな顔立ちをしているのか、どんな目の色をしているのかとね。……俺に言われたからといって、無理に人の真似をしなくてもいいんだがな。人の真似をしながら話をするのは楽しいぞ。君とならきっと手合わせも出来るな……そんなことを考えながら君と過ごすのが、最近じゃ一番楽しいし、楽しみで仕方がないんだよ」
 だからひとりでいいなどと、このじじいの前では言わないでくれよ。いつもよりずっと柔らかく響いた男の声に、大倶利伽羅はなんと返しただろうか――……
「……、…………、……倶利伽羅や。大倶利伽羅廣光さんや」
 記憶のなかに沈むように考え込んでいた大倶利伽羅を引き上げたのは、どこか躊躇うように掛けられた審神者の声だった。見ればなんとも難しい顔をして、大倶利伽羅をじっと見つめている。次いで逡巡するように視線を泳がせた後、深々と溜息をついて言葉を続けた。
「今の話。と、いうか。鶴丸国永についての話、他の奴にはしないほうが良いと思いますヨ。特に燭台切相手には、絶ッ対に、しない方が良いと思うな……」
「何故」
「……その話、というかその顔、みっちゃんに見せたら絶対、ほぼ間違いなく、鶴丸国永に興味持つだろうから。余計なちょっかい掛けられたくなかったら、鶴丸国永がうちに来るまでは、何も言わずに過ごしておきなよ……きっとそれが一番いいってさにわ思うの」
 いまひとつ話は分からなかったが、分かったと大倶利伽羅は素直に頷くことにする。本丸に呼ばれてからも燭台切との関係はあまり良くない。そんな話をする機会もないだろうと大倶利伽羅は思うのだが、人の機微に関する娘の助言は、あてになる。
「……まあ、何か話したいことがあったら、誰も居ない時に私のところおいで。しっかりと人払いしてから聞いたげるからさ」
「……ああ」
「しかし、うん。成程ね。……良い奴なんだねえ」
 ほとんど何も語っていないはずの大倶利伽羅に、審神者はそう言って、ゆったりと微笑んだ。

「ん? ということはさー、倶利伽羅や」
「何だ」
「鶴丸国永って君とおんなじ、両足で歩いてた感じの付喪神?」
 審神者の言葉に、大倶利伽羅は言葉を詰まらせた。刀の時分から人の似姿を持っていたものと、持たなかったものがいることを、彼女が知っていることにも驚いたし、大倶利伽羅は己が持っていた側の付喪神であることを、誰にも話していなかった。
「ん、もしかしてこれこそ内緒の話だった?」
「……別に隠していた訳じゃないが、誰にも言っていない」
「そうなんだ。結構見てると分かるんだよね。倶利伽羅は人の体に慣れてるみたいだったから、きっと元からそういうかたちだったんだろうなって思ってた」
 本当にこの娘には恐れ入る。主は今年で十六になると話していたが、人間とはそんな短い年月でかくも敏く育つものなのだろうか。
 そう、彼女はたいへん、敏すぎた。大倶利伽羅の表情を見て、何かを察してしまうほど。
「…………」
「…………あー、そう、なんか、うん。ごめんね……」
 いたたまれないと言わんばかりに言葉を濁す己の主に、大倶利伽羅は何も返せずにただ視線を逸らして俯いた。
 
 
 
 大倶利伽羅に人の似姿を与えたのも、あの白い付喪神だった。
 
 
 
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 満月の美しい夜だった。
「どうすれば君が人の真似をしたくなるか、考えてみたんだ」
 これはいったいどういうことだ。大倶利伽羅は己に覆いかぶさる白い男を見上げて、ただただ困惑していた。蔵の中は暗かったが、月の明かりさえ窓から差し込んでいれば、付喪神である彼らは問題なくものを見ることができる。鶴丸は普段の装いよりもずっと心もとない、人が眠る時に着る寝間着のような格好で大倶利伽羅を見下ろしていた。衿の合わせは随分と大きく広げられていて、真っ白な胸元が覗いているのが気になって仕方ない。
 くふくふと笑い声を堪えて、男はいつもよりもゆっくりと大倶利伽羅のふちを撫で上げた。
「己の足でそこらを歩くのは中々楽しいんだが、君はあまり興味がなさそうだからな。人の身でしかできぬことをと思ったんだが、俺らは物を食える訳じゃあないし、かすみのままでも眠ることはできるからなあ。そこまで考えて、そういえば肉欲という言葉があったなあと思い出してな」
 おまえはいったいなにをいってるんだ、と大倶利伽羅が返しても、鶴丸は金色の目を細めて笑みを深めるばかりだった。その言葉を知らぬ訳ではない。知らぬ訳ではないが、どうしてそこに行き着いた。そう叫びたいような心地がするのに、それ以上大倶利伽羅は声を上げられなかった。
「なに、肉を持つ生き物の真似事をさせようっていうなら、肉の欲を教えてやれば良いんじゃないかと思ってね。安心しろ、途中で他の連中が入ってこないように、貞宗に頼んでいるからな」
 男が何を言っているのか、大倶利伽羅には理解出来なかった。否、意味としては分かるのだ。しかしなぜ、どうしてそんな話になっているのか分からない。
「悪いなあ。本当に、待ってやるつもりでいたんだぜ。だけどいい加減焦れったくなってなあ。堪えがきかなくなったんだ」
 そっと吹き込むような男の声音に、なにかがぎくりと強張ったような気がして、大倶利伽羅はそこから動けなくなる。こんな鶴丸を見るのは初めてだった。こんなに余裕の無い、そしてそれを隠すように言葉を重ねる鶴丸を、今まで大倶利伽羅は見たことがなかった。
「君のいのちをふわふわ撫でるのも、悪くはないんだがなあ……君に触れてもらいたくて仕方がないんだよ、大倶利伽羅。悪いようにはしないから……どうか、こらえ性のないじじいを許してくれ」
 そう言って笑う鶴丸の瞳が、どこか切なげに潤んでいるように見えて、大倶利伽羅はいよいよ何もできなくなってしまう。その目を見た途端、かっと何かが熱くなって、まるで己がすべて炎になって燃えているような気さえした。
 大倶利伽羅がなにも返さないのを肯定と取ったのか、それとも勝手に進めることにしたのか。ふ、と表情をゆるめた鶴丸が、顔を近づけ、口で大倶利伽羅の命に触れる。触れられた場所がますます熱くなって、大倶利伽羅はもう己が何をすべきなのか全く分からなくなっていた。そっと離れた鶴丸の顔が、とろけるように微笑んだ。
「なあ、大倶利伽羅。君はあまり人の体に興味がないから、耳や鼻、目は知っていても、これがなんというか知らないんじゃないか?」
 そう言って鶴丸は、己の指で口の膨らんだふちをなぞってみせる。くち、ではないのか、どうにか大倶利伽羅がそう返すと、「間違いじゃあないが」と笑ってもう一度膨らみを指でなぞった。
「これは唇と言うんだ。こちらが下唇で、こちらが上唇。俺らに血は流れていないが、人の唇は血の色を透かしているから赤いんだそうだ」
 鶴丸はていねいにその膨らみをなぞりながら、その名前を彼に教えた。くちびる、とたどたどしく繰り返す大倶利伽羅に、鶴丸はそっと囁く。「ここを触られるとな、気持ちが良いんだ。触っておくれ、大倶利伽羅」
 それまで大倶利伽羅は男に触れられることこそあれ、自ら男に触れたことは一度もなかった。そもそも何かに触れるという感覚がない。しかし鶴丸が、そうしてくれと望んでいる。何ひとつ分からないまま、おそるおそる、その唇に向かって何かを動かす。
 ふに、と己のふちに、鶴丸の唇が当たる。やわらかい、と大倶利伽羅は先に思った。そして初めて、柔らかいという感触を知った。
「ふ、……ああ、そうだ。柔らかいだろう? そら、ふちで少しだけ押してみろ」
 言われるままそうっと押せば、さらにその柔らかさが際立つようだった。ついそのまま、先ほど鶴丸がしてみせたように唇をなぞると、「あ、」と微かな声が唇から漏れた。ぞくりと己の中で何かが粟立つのを大倶利伽羅は感じ取った。
「ああ……上手だ、大倶利伽羅……きもちがいい……」
 うわごとのようにそう囁いた鶴丸は、しばらく大倶利伽羅が唇を撫でるに任せていたが、やがてその唇をぱかりと開いて、唇を撫でていた大倶利伽羅をその中に含んでしまった。かと思えば、間をおかずに何か湿ったものがうねるように大倶利伽羅にまとわりついた。ぎょっとする大倶利伽羅を一度窺ったかと思えば、ん、ん、と鼻にかかる声を漏らしながら口の中の濡れた何かで大倶利伽羅を攻め立てる。先ほどからこれ以上熱くならないと思っているのに、鶴丸に何かされる度に熱が上がるような気がした。じゅ、と音を立ててから離れた鶴丸の唇が、てらてらと光って見える。
「驚いたか? いま、君を舐めたのがベロだ。いま見せてやるから、よく見ろよ?」
 そう言って大きく口を開けた鶴丸が、唇よりも赤い肉の塊を内側から突き出した。ちろちろと先の方を動かしてみせてから、唇の奥にしまいこむ。存外自由に動かせるものらしい。「これを歯で噛み切ると人は死ぬ」、と付け足して鶴丸は笑った。
「人の体は面白いぞ。刃物の身で切っただけでは分からんことばかり、このちっぽけな器のなかに詰め込んである。……人の体が怖いか? 大倶利伽羅」
 こわくはない、と思う。ただ、どうすれば良いのか分からないというのが正直なところだ。生まれてこの方、大倶利伽羅はこのかたちなき在り方で過ごしてきたし、それが人の形を取るところなど想像したことさえなかったのである。今更どうやって肉の体を象ればいいのか分からない。こわくはない、が、わからない。正直にそう告げれば、鶴丸はとろけるように微笑んだ。
「大丈夫だ、君はもう、自分のかたちを知っているはずなんだ。人の手で生まれ、人に愛された刀なのだから……なに、俺が全部教えてやろう。……だからどうか、君のかたちを教えてくれ、大倶利伽羅……」
 その掠れた声を聞いて、大倶利伽羅はようやく覚悟を決めた。別段、人の体が欲しいとは思わなかった。しかしこの美しい男が、大倶利伽羅にそう成ることを望んでいるならば。大倶利伽羅は彼の望みを叶えたかった。
 己のすべてを委ねた大倶利伽羅を見て、鶴丸はありがとうと言って破顔した。安心したようにも、泣きそうにも見える笑顔だった。
 終わるまで目を閉じろと鶴丸が言って、見よう見まねで視界にそっと蓋をした。それがまぶただ、と言い聞かせながら、鶴丸がまぶたを優しく撫でる。これだとなにもみえない。おちつかない。
「君は強い子だから、慣れないだろうな。だけど見たくないものがある時に、人はそのまぶたを閉じるんだ」
 おれは、つるまるのかおがみたい。
「……君は、俺を喜ばせるのが本当にうまいな。だけどそれは後のお楽しみだ。……終わるまで目を閉じていろ、大倶利伽羅」
 そこからは鶴丸の言う通り、触れろと言われれば触れて、触れられて、動かして、絡めてを何度も何度も繰り返す。鶴丸は指の腹で大倶利伽羅のふちをなぞりながら、ここが唇、ここが頬、そうひとつひとつ教えてきかせた。そうやって教えられたばかりの舌を絡めて、目を閉じたまま口吸いをした。
 もやのままなら、のどのおくまでとどくのに。
 それでは駄目だ、大倶利伽羅。混ざり合ってはいけないんだ。俺は俺のまま、君は君のまま、境目に阻まれながら触れ合わなければならない。そうでなければ意味がないんだ。
 しかし大倶利伽羅はどれだけ気をつけても何度かかたちを失って、思わず鶴丸の奥の奥まで潜り込んでしまった。その都度あ、あ、と鶴丸が声を上げて、驚いてかたちを取り戻す。鶴丸は怒らなかった。困った子だと笑って、根気強く大倶利伽羅に人の形を教えこんだ。
 どれほどの間、そうしていただろうか。
「……そら、目を開けてみろ、大倶利伽羅」
 鶴丸に言われ、大倶利伽羅はゆっくりとまぶたを上げた。目の前に、額に汗を浮かべた鶴丸の顔がある。焦げたように黒い手が鶴丸の頬を包んでいるのが見えた。腕には龍が巻き付いている。ああ、これが俺の体か。
「……鶴丸」
 喉を震わせ男の名を呼ぶ。低い声だ。己はこんな声をしているのかと思う前に、鶴丸が彼の体に抱きついた。
「ああ。……ああ、大倶利伽羅。やっぱり君は、想像していたよりずっと、美しいな……」
 いつの間にか一糸まとわぬ姿になっていた鶴丸の白い背中を、大倶利伽羅は龍のいる腕で抱き寄せた。その体のなんと細いことだろう。首筋に顔をうずめ、すんと鼻を小さく鳴らすと、汗に混じって甘い香りが広がった。
 それにしてもと思う。どんな顔なのかは知らないが、こんな浅黒い肌の男を捕まえて、美しいなどとよく言える。少なくともあんたには負けるだろう。そう言い返すのは何だか気恥ずかしくて、大倶利伽羅はただ抱き寄せる腕に力を込めた。
 腕の中で、鶴丸がくふふと笑い始めた。
「ふふ……はは、は……ようやっと、君と触れ合えるなあ、大倶利伽羅!」
 抱きついたままの鶴丸が大倶利伽羅ごと寝転がる。ころりと上下が逆転し大倶利伽羅に押しつぶされても、鶴丸はけらけらと笑い続けた。しかしつられて微かに笑った大倶利伽羅を見た途端、鶴丸は目を丸くしてぱちぱちと瞬いた。
「……ああ、ああ、驚いた! 君はそんなふうに笑うのか!」
 ますます大笑いし始めた鶴丸を抱きしめながら、大倶利伽羅もくつくつと小さく笑った。二人でひとしきり笑い合い、息を整えながら視線を合わせた。銀色の睫毛に縁取られた金色の目が、蜜のように光っている。
「君も金色の目をしているんだなあ」
 揃いの色だ、と言って鶴丸があんまり嬉しそうに笑うので、もっと近づけようと額を合わせて見つめ合う。そのまま吸い寄せられるように、互いの指を絡めながら、二人はそっとくちづけた。
 
 
 
「おいおい、ゆうべはあんなに情熱的だったのに、なんでそんなに不機嫌なんだ?」
「……別に」
「誤魔化したって無駄だぜ。人の真似事は俺の方がずっと長くやってるんだ。それに君のことはずっと見てきたんだ、見てればすぐに分かるぞ。ほれ、誰もいないんだから言ってみろ」
「…………貞宗にも」
「ん?」
「同じようなことをしてやったのか」
「……」
「…………」
「……ふ、く、くくくく……あはははははは! 君は本っ当にかわいいな! あんなこと、君の他には誰にもしてないさ。誓っていい。……ああ、本当、君は……ふ、ふふふふ……」
「…………」
「いやいや、悪い、笑って悪かった。そう拗ねないでくれ。ただ、あんまり嬉しくてな。君、貞宗に妬いたのか、そうか……そうか」
 あいつは器用らしくて、いつのまにかあっさりと人の姿になっていたよ、と言いながら上機嫌に鶴丸は彼の頭を撫でた。ああ、これでは光忠の悋気を馬鹿にできない。
 ばつの悪さに耐えられなくなった大倶利伽羅が無言でその体を引き寄せても、鶴丸はにこにこと笑ったままだった。よくまあそれだけ笑えるものだ。その顔を見ていると、何かとどうでもよくなってくるのだから、大倶利伽羅も大概だった。
「……ああ、今年の桜は君と二人で見られるなあ」
 思い出したような鶴丸の言葉に庭を見やれば、桜の蕾が膨らみ、ほんのりと色づいている。楽しみだな、と呟いた鶴丸の肩に頭を預けて、大倶利伽羅は瞼を閉じた。今年も、来年も、その次の年も、共に桜を見られればいい。
 望めば共に在れるという訳ではないことを、刀達はよく知っていた。
 
 
 
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「最近、大倶利伽羅ばかり出陣させてるよね」
 そう切り出した燭台切光忠にも、審神者は動じることなく「そうだねえ」と頷いた。
「何か考えがあるのかい? 前までは第二部隊の隊員だった大倶利伽羅が、最近じゃ近侍までやってるし。勘繰ってる子もいるみたいだよ」
「勘繰る、というと」
「まあはっきり言っちゃうと、主と大倶利伽羅の仲を怪しんでるというか」
「……例えば誰がそれ言ってます?」
「そうだねえ、僕が聞いたのは獅子王くんからだったかな」
「良かったしっしーなら許す。ていうか短刀ズに勘違いされてたら割りと絶望する」
「ああ、勘違いなんだ」
「いえすいえす。倶利伽羅は可愛いと思うけどねー。惚れた腫れたの相手じゃないなー」
「可愛いかなあ……まあともかく、急に第一部隊に入って、近侍までするようになったから。やっぱりちょっと不思議に思うよ。長谷部くん辺りが何か言ってきてるんじゃないの?」
「長谷部には事情を話して了承取り済でっす。ぬかりないですのことよ」
「事情、ね」
「うん。事情。まあぶっちゃけ単なるえこひいきと言われればそれまでだけど」
「あ、自分で言っちゃうんだソレ」
「そりゃあワタクシただの人間ですもの。全員平等になんて器用なことできませんよ」
「ふうん……なんだか妬いちゃうねえ」
「やだなー、みっちゃんのことも可愛いと思ってるよ」
「……可愛いって言われても、あんまり嬉しくないかなあ」
「あら残念」
「……おい」
 二人の会話に割り込んで来たのは大倶利伽羅だった。噂をすればなんとやらかと燭台切が考えている横で、「どしたの倶利伽羅」と主は首を傾げている。主はわりと分かりやすい。燭台切と話をする時と、大倶利伽羅と話をする時では声の色が違う。それが燭台切には面白くない。表には出さないけれど。
「……手伝い札をくれないか」
「手伝い札?」
 大倶利伽羅の言葉に、燭台切はきょとんと隻眼を丸くした。おそらく鍛刀部屋にいたのだろうと予想はついたけれども、わざわざあの大倶利伽羅が手伝い札を用意するよう審神者に頼むのが不思議だった。
 しかし審神者の方は、その言葉だけで何かを察したらしい。
「……確信は」
「多分、としか言えない」
「オーケー分かった、すぐ持ってくる。はい、燭台切は長谷部を探してきてください。そして一緒に私の部屋に来てください。私がいなくても私が来るまで待ってるように」
「えっ、何で?」
「主命です」
 きっぱりとそう言われてしまえば、そしてその内容がへし切長谷部絡みとなれば、燭台切は言われた通りにせざるをえなくなる。手を抜いたら後でうるさいから。すっごくうるさいのが分かってるから。
「それじゃあよろしくね、みっちゃん」
 そう言って主は資材部屋に向かって駆け出し、大倶利伽羅は鍛刀部屋の方へと戻っていった。
 もしかして、話していた事情とやらに関係があるのだろうか。
 そう思ったところで、遠回しに覗き見を禁じられた燭台切には為す術がない。怠慢は許さんぞという幻聴を振り払うように頭を振ってから、彼は機動一位の打刀を探しに向かったのだった。
 
 
 
「よっ、鶴丸国永だ。俺みたいなのが来て驚いたか? 大倶利伽羅」
 
 
 
 早々に鍛刀部屋から退出した審神者は、遠回りをしながら自室に向かう。おじゃま虫になる気もないし、せっかくならできるだけ長くふたりきりにしてやりたい。
「……ぐっじょぶ、倶利伽羅」
 頑張ったねえ、と。誰に聞かせるでもなくそう呟いて、審神者は満開の桜を眺めた。

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