• 単発もの小説

潜伏する化身

  • 血界戦線
読了目安時間:5分

血界戦線のアンソロジーに寄稿させていただいた小説。初音様ありがとうございました。レオナルド・ウォッチに関するスカーフェイスの世迷い言。

 霧の街、そのフレーズを耳にしたなら倫敦ロンドンの冬を目蓋に描く。そんな時代はとうの昔にすぎさっていた。今を生きる人々は霧のむこうに異界ビヨンドを見る。かつて紐育ニューヨークと呼ばれていたはずの大都市が、たったの一夜ひとよで霧の街に変わってしまった。
 かつて科学が否定したはずの――否、否。それ以上のものさえ含んだすべての事象を携えて、霧のむこうの影たちは人類の前に現れた。いったい誰が予想しえたであろうか、この様相を! 少なくともドクターA、彼の予言からはすっかり外れてしまったらしい。それとも博士の記した「未来」とやらに人類はまだ? いずれにせよ冗談だけでつくりあげたようなこの街は、昔だったらジャパニーズコミックの世界、その一言で片付けられただろうに。
 異界と人界が入り混じった霧の街ヘルサレムズ・ロット。ひとたびその異様さを受容してしまったら、非日常と日常の区別がつかなくなる。
「スティーブンさん?」
 名を呼ばれた顔に傷のある男スカーフェイス、彼は柔和な微笑をたたえ、その声に応えながら思考する。声の主たる少年はけして気配に敏くない。それでも男が足音ひとつ立てぬままやってきたのに気がついたのは、やはりその目のせいだろう。
 まるで目をつむっているかのように細められた少年の目は、およそ二一〇度。周辺視野にも一切の曇りを残さぬまま、像を結ぶことができるという。いつだったか本人がそう言っていた。
『神々の義眼』。
 そう呼称される――人智を超えた、目だ。
「もう『目』の方は大丈夫かい?」
「ああ、はい。おかげさまで、なんとか」
 あまりにも異質な目をその眼窩におさめた少年は、どこか困ったような表情で返事をしながら右のまぶたを指の腹で軽くなでている。先日彼の右目はとある事件の際に一筋大きなヒビをこしらえていた。あまりにも多すぎる情報を収めすぎたがゆえに。
「変な話ですけど、すっかり元の通りなんですよね、これが」
 なるほど、斜めに走っていた亀裂はどこにも見当たらない。右の目だけぱちりと開けてみせた少年の名は、レオナルド・ウォッチ。……そう、『ウォッチ』ときている。『神々の義眼』を保有しあらゆる事象を見極める者として、これほどの名が他にあろうか。その瞳を彼に与えた異形の者も、もしかしたらその名に惹かれて姿を現したのではあるまいか。
「それはなにより」、そう口にしながら傷の男は思考を続ける。この少年が格闘術の類を会得していたら、おそらくそれなりの戦力になったに違いない。「見える」ということは間違いなく戦いの上で、優位を保つ材料になる。
 霧の街ヘルサレムズ・ロットの均衡を保つべく組織された『天秤リーブラ』の名を冠する秘密結社で日々異形と対峙している傷の男は、なんの戦闘能力も持ちあわせていない少年を目の前にして、そんな戯言めいたことを考える。彼はほんの少し、ほんの少しだけ、少年の目を、少年を、恐れていたから。
「ここの皆さんはすごいなと思いますよ」
 いつだったか、少年とことばを交わした日のことを、傷の男は思い返す。
「この目、見ようと思えば上下左右三六〇度、まるっと全部見えるんです。なんだか自分ののうみそが透明になったみたいな感じがしてぞっとしないんですけど」
「でも、僕は訓練だとか修行だとか、そういうのをやってこの目を手に入れたわけじゃないですから。覚悟っていうか、そういうのはちっとも、ないと思うんですよね」
 ぽつりぽつりと、すっかり覚悟しきっている顔で語る少年を見て、さらに別の男のことばが脳裏を掠める。少年と日常的に行動を共にするようになった銀髪の青年が、酒の匂いに紛らわせながらつぶやいていた。「あれは、普通じゃねえんだ」。
 そこでようやく傷の男は少年の異質さに気がつくのだ。少年のこの街にそぐわぬ凡庸さは人界から来た者ゆえの性質であり、この組織にはそぐわぬものだとさえどこかで思っていた。しかし、その目。すべてを見渡せる異形から与えられた双眸を持っていながら、その性質を失わぬままでいることは、果たして『凡庸』であると言えるのか。
そしてようやく理解する。彼は人界にあろうと、そしておそらく異界にあろうと、異端でしかない。違和感を覚えさせないほどに、彼は異形とまじりあってしまっているのだから。
その姿はまるで。
「……どうかしました? スティーブンさん」
「いや、なんでもないよ」
 いつもどおりの笑顔を浮かべて傷の男は話をそらした。まるでこの街のようだと、そんな冗談みたいなことを口にする男ではなかったから。
 
 
 
(さて、此処で彼らの話をしている私は誰なのかと時折尋ねる者もあるが、それを聞いて何になろう。私はとくに名を持たぬ。強いて言うならばすべてを見下ろす者と名乗るとしようか、そう答えると「ならばお前は神の視座を持つ者か」と続けて問うてくる者さえいる始末。否、否。仮にそうだとするならば、あの少年もまた、そう呼ばねばなるまいて。)


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