• 単発もの小説

ディテクティブ・アンド・ゴースト

  • 刀剣乱舞
  • へし切長谷部
読了目安時間:28分

2016年の冬に発行された刀剣乱舞×スチームパンクアンソロに寄稿させていただいた小説です。へし切長谷部を担当しました。

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 街には鋼のにおいが立ち込めている。
 否、それはもしかしたらただの気のせいなのかもしれなかった。イタリア風を気取った家屋が建ち並ぶ大通りを、緑がかった金色のギアを露出させた市街バスが、蒸気を吐き空気警音器クラクションを鳴らしながら巡行している。その横では通りを行き交う人に混じって、顔を化粧で塗り固めくたびれた衣装に身を包んだ男が、ぜんまい仕掛けの音響動車〔註:大道芸人等が用いる自鳴琴を積んだ台車。〕を引いている。美術館前の広場に向かっているのだろうか。あのギリシャ風の正面玄関の前で芸をするのはひどく滑稽である気もするが――。
 長谷部がアメリカで暮らし始めてからだいぶ経つ。しかし彼は街中の至る所で人の目を引くように、あるいはひっそりと景色に溶け込む様に存在している数々の階差機関や絡繰をじっと見つめるその度に、どうにも違和感を覚えるのであった。長谷部が元いた国――否。元いた世界では、見たことのないような代物ばかりだったので。
 並行世界と、彼の主人は言っていた。
 歴史修正主義者の度重なる時間遡行と工作によって生じた、本来であれば存在しえなかった分岐の先にある世界。それがこの歯車に溢れた世界であるのだという。
 この世界で生きる無辜の人々は、当然そとの世界を知らない。
 知っているのはこの世界を生み出した歴史修正主義者と、それに相対する者達。即ち、刀剣男士のみである。
 長谷部は深く溜息をつく。蒸気機関車が引く鉄道車両に揺られて二時間。駅を降り、目的地へと向かう彼の眉間には深く皺が刻まれていた。嗚呼、思い返すのも忌々しい。「お前ですら掴めないというのであれば、他に頼るほかないだろう」。そう言った主人の声が、今もなお頭の内側で木霊していた。
 内通者がいる。
 長谷部がそう確信を持ったのは、半年ほど前のことだった。兆候はそれよりもさらに前からあった。何の変哲もないカモフラージュとしての探偵の仕事に紛れ込ませた、本来の任務に邪魔が入る。以前から敵との衝突は幾度もあったし、すべての任務が失敗に終わるというわけでもなかったから、はじめのうちは問題視されていなかった。しかしあまりにそれが続けば不審に思う。訝しんだ長谷部は、誰にもいわず独断で細工を施した。彼らの会社には仲間以外にも、何も知らぬこの世界の人々がいる。むしろ数としてはそちらの方が多かった。長谷部は彼らを使い、仕事と偽って任務の真似事をさせたのだ。結果、ダミーは一度も襲われなかった。
 こちらの手の内が知れていることを主人に伝えた、そこまでは良い。内通者を探し出せば、それでことは終わるはずだった。しかし密偵探しは難航し、未だにこれといった手がかりを掴めずにいる。
(――だからといって、『同業者』に頼むことになろうとはな)
 目的地に辿りついた彼は、その探偵社の建物をしばらく睨み続けていた。
 
 
 
 探偵業を掲げる会社に持ち込まれる依頼は、多くが人探しや身辺調査だ。しかし大きな会社になってくると身辺警護やアウトローの追跡、傭兵まがいの荒事も舞い込んでくる。そして近年増えているのが、労働スパイの依頼であった。企業の経営者側が労働者側との職場闘争に際して、組合員と思わしき者達への監視や対抗の手段として探偵を雇い入れるのだ。雇われた探偵は普通の社員として社内に潜入し、労働者たちに目を光らせる。だから長谷部の「社外秘を漏らしている者を探し出してほしい」という依頼も、それ自体はさして物珍しい内容ではないはずだった。ただしそれが同業者からの依頼でなければの話だが。受付の女性が書類を確認している最中、長谷部は無理矢理あいまいな笑みを浮かべるほかなかった。赤っ恥もいいところである。
 順番に応接室へご案内いたしますので、こちらに掛けてしばらくお待ち下さい。そう告げられた通りロビーに置かれたソファに腰掛けて、長谷部はしばし建物のなかを眺めていた。大きな建物だとは思っていたが、入ってみると想像よりもさらに広い。客用玄関のある建物から中庭を挟んでもうひとつ棟があるのが、大きく取られたガラス張りの窓ごしに伺えた。流行っているのだな、と思いながら長谷部はどこか絵画めいてみえる鮮やかな色彩の庭を眺めて、それに気が付く。
 解析機関アナリティック・エンジンだ。
 長谷部の目はいい。だから向こうの棟に置かれた、この世界の技術の粋を集めた機械と、その前に膝をつくフロックコート姿の男を明瞭に捉えることができた。黒や紺を避け、ブラウン系の色合いでまとめた姿はいくらかカジュアルではあったが、それでも汚れるのを厭わず床に屈み、工具を手にする姿はどこか風変わりな印象を長谷部に与えた。遠目にも分かる美丈夫が、解析機関を甘やかな眼差しで見上げているのもなんだか気味が悪かった。うちにも解析機関はおいているが、あのようにあれを見つめる者は見たことがない。組み上げた機械を女性の名で呼び愛でるマニアが存在するとは聞いたことがあるが、あの男もそのクチだろうか。やがて男は誰かに呼ばれ、その場を離れていった。それとほぼ同時に、ようやく長谷部の名前が呼ばれた。
 五番応接室と掲げられた部屋に案内された長谷部は、そこでも数分待たされた。シックな内装の室内でひとり腰かけ、いつまで待たせる気だと思ったところでノックが響く。失礼いたします、という穏やかな声と同時に扉が開いた。
「大変お待たせいたしました。ハセベ様のご依頼を担当させていただきます、ヘンリー・ハマートンと申します」
 そう言って気送管用のカプセルと書類を手に現れたのは、さきほど見たフロックコートの美丈夫だった。思わず「あ」と声を上げた長谷部に、ヘンリーは目を丸くする。
「如何いたしましたか?」
「いや。さきほどロビーから貴方をお見掛けしたもので。……立派な解析機関ですね」
「ああ、お気づきになられましたか。『クライアントへのアピールにはなるが、見せびらかしたくはない』と所長が言いましてね。回りくどくあんな場所に置いてあるんですけれど。流石でございます」
 流石、というのが己の職業を指していると分かって、長谷部は苦虫を嚙み潰したが、ヘンリーはそれに気づいていないのか、柔和な笑みを絶やさないまま、テーブルを挟んだ向かいのソファに腰かけた。「珍しいお名前ですね」と雑談に水を向けながら、カプセルと書類をテーブルに置く。
「どちらのお出身なのかお伺いしても?」
「俺の生まれですか? 日本ですよ。商いをやる家で育ちましたが、いろいろありまして。数年前に知人のつてでアメリカに渡ってきました」
「日本の方でしたか。うちの社長も日本がお気に入りでしてね。エキゾチックで良いと向こうの品を集めてばかりで。……では、ミスター・ハセベ。ご依頼について詳細をお聞かせいただいても?」
 溜息をひとつ吐き、長谷部は嘘と事実を織り交ぜながらことの次第を話してきかす。その間もヘンリーは始終微笑んだままだった。
 
 
 
 ヘンリーは臨時の経理担当者という形で迎え入れられた。
 ちょうど先日、経理を担当していた女性が結婚して退職したばかりであった。タイミングよく現れたヘンリーを仲間以外の社員達は諸手を上げて歓迎した。皆あまり数の計算が得意でないのである。逆に仲間たちは訝しんだが、長谷部は大丈夫だと言ってなだめた。――『同業者』を雇い入れたことを知っているのは、主人と長谷部の二人だけだ。あまり考えたくはなかったが、仲間のなかに内通者がいる可能性も否定できない。念には念を、というやつである。
 ヘンリーの周りには早速人付き合いの良い者たちが集まっていた。
「なあなあ、あんたヘンリーだっけか? 俺はオットー・ギブスンだ。これからよろしくなァ」
「俺ぁミハエル・スミスだ。よろしく頼むぜ!」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
「なんだよ、固ェなあ色男が! 臨時とはいえこれからは仲間じゃねえか、そういうかたっくるしいのは抜きだ抜き!」
「いえ、しかし」
「そーだそーだ。俺よか年上だろォ? そんなに畏まられちゃ調子くるうぜ」
「歳はそれほど変わらないように思うのですが……」
「お前ら、新人にいきなり絡むんじゃない」
「ったあ!」「ってえな!」
 ばし、ばし、と長谷部が丸めた書類で背をはたくと、二人が大げさに痛がってみせる。長身のオットーと、背はやや低いが逞しい体格の良いミハエル。この二人は会社の優秀な稼ぎ手ではあるのだが、少々落ち着きがないのが玉に瑕だった。
「ちょっと新人と親睦を深めようってだけじゃねえか。今日は内勤で暇だしよー」
「本音が出ているぞ。……すまないな、突然騒がしくして驚いただろう」
「いえ。……経理の仕事は以前もしていましたが、こういう職場は不慣れですので。いろいろ気配りしていただけてとても助かります」
 先日はつけていなかった細いフレームの眼鏡を指であげながら、ヘンリーは柔らかく微笑んでみせた。なるほど、こいつは大した役者だ。依頼の時はどこか食えない男だと思っていたが、今ここでこうして見ているだけであれば、少々気弱で穏やかな好人物のように見える。顔が良すぎて労働スパイには向かないのではないかと思っていたが、こうも雰囲気を変えられるのならば、小奇麗な顔もむしろ強みになるだろう。女相手はもちろん、男相手にも。
「そうだヘンリー。今夜は空いてるか? 折角だ、歓迎会としゃれこもうぜ」
「歓迎会?」
 ヘンリーの肩に腕を回したミハエルが、にやりと笑ってその耳元に顔を近づける。ああ、ろくでもないことを考えているな、と分かってしまった長谷部はげんなりとした顔で聞く。
「お前ら、どこに連れていくつもりだ」
「イイところだよ、イイところ」
 気持ちいーい気分になれる、とミハエルは小さく笑った。
 
 
 
 ヘンリーは大層モテた。
 ミハエルが『イイところ』と称していたのは非合法の酒場であった。禁酒法が施行されて以降もなお、酒場は消えることなくマフィアの庭として機能している。そしてそういう酒場には、挑発的な衣装に身を包んだ女たちが客寄せをするような店もいくつかあった。ミハエルとオットーが二人を――なぜか長谷部まで一緒に――連れて行った店にも、しどけない姿の女たちが大勢いて、盛大に彼らを歓迎した。
「あら、お二人さん。今日はずいぶんとカワイイ子を連れてきてるじゃない?」
「ようアンジュ。どうだい、色男だろ? うちの会社に新しく来た坊やだからな、取って食ったりしないでくれよ」
 常連顔のミハエルがそういうと女たちは「はぁい」と甘ったるい声で返事をして、ヘンリーと長谷部の背や肩に柔らかな体を密着させながら席まで連れ添い、そのまま酒盛りが始まった。長谷部は頭を抱えたくなる。
「お前ら、どれだけこの店に金を落としてるんだ……」
「まあまあ、会社の金に手をつけてるわけでもねえし」
「当たり前だ!!」
 禁酒法は半ば形骸化している法で、今更不法酒場に出入りしてる程度では誰も咎めないのが現状だが、それにしたって限度というものがあるだろう。ヘンリーは女たちに囲まれ、困ったような顔で水を飲んでいたのだが、途中でミハエルにそれを見つかってエールを押し付けられていた。
「なんだヘンリー、お前下戸か?」
「いえ。以前は少々飲んでいましたが……」
「やだ、お兄さん見た目通り真面目なのねぇ」
「だめじゃないミハエル、こんな真面目な子に悪いこと教えちゃって」
「なんだよ、今更だろうがよ」
「……久しぶりのお酒を、こんなに沢山のお嬢さん方と一緒に飲めるとは思っていませんでした」
 眼鏡の奥で目を細めて苦笑したヘンリーに、女どころか男三人までもが固まった。「や、やだあ!」と照れたようにどっと笑いだした女達の横で、長谷部はこんどこそ頭を抱える。こんな場末の女達にお嬢さんだなんて言っておいて、特に口説いている訳でもないのが恐ろしい。やはりこいつは変わり者だ。どこまで本気なのか分からない。
「なんだ、あんた下戸だったかぁ?」
「違う、下戸じゃない。焼酎をナメるな」
「何だそりゃ」
 わけわかんねーの、とケラケラ笑うオットーはといえば、気を取り直してぱかぱかと水のようにウィスキーを流し込んでいる。それはそういう飲み方をするものじゃない。馬鹿か。目の前のなにもかもに突っ込む気力を失い、思わず長く重々しい溜息を吐き出してしまう。
「あんただってその仏頂面をしなきゃ女にモテるんだろうになあ。顔はいいんだから」
「煩い。別にひがんでる訳でもない。俺にかまうな」
「おー、こわー」
 そんな会話をしている間も、女たちはミハエルとヘンリーの周りできゃあきゃあとはしゃぎながら酒を勧めている。
「そういえばミハエル。新人君にあの話したの?」
「あァ? 何の話だよ」
「ンもう。自分で話したことすぐ忘れるんだから。アレよアレ、ミハエルたちの会社に出るっていうアレ!」
「ああ、あれか」
「……なんの話だそれは」
 会社に出るという何かの話に、思わず長谷部も耳を傾ける。彼らは長谷部の仲間ではないが、もしかしたら内通者に関連する何かを目撃しているのかもしれない。
「なんだ、ハセベはしらねェのか? 結構うちのやつらみーんな噂してるぜ?」
「俺も聞いたことあるぜ。見たことはねえけどなぁ」
「何のことです?」
 ヘンリーが首を傾げてみせると、隣の女がにまりと答えた。
「ミハエルたちの会社ってね、女の子の幽霊ゴーストが出るんですって!」
 長谷部は真面目に聞いたことを後悔した。くだらない。頭を左右に振る長谷部の横で、「それは怖いですね」とヘンリーは眉を下げて笑っていた。
 
 
 
 誰もいない夜の社屋を、男はひとりで歩いている。
 今回の依頼について話を聞いた時、男は思わず笑ってしまった。まさか『同業者』からこんな依頼が来るなんて、考えてもみなかったのだ。これは依頼に見せかけた何かの罠なのではないか。そう勘ぐってしまうほど、今回の依頼は予想外の出来事だった。たまらず探りを入れてみたものの、どうみてもこの依頼が来たのは本当にただの偶然で――だからこそ、気取られてはいけなかった。
(まあ、いい。今はやるべきことをやるだけさ)
 他の社員はとっくに退社していて、社内は耳に痛いほど静かであった。これほどの静寂であれば男の足音のひとつやふたつ高らかに響きそうなものなのに、彼の歩みには一切の音がない。
 無音の暗闇を破ったのは、幽かにたゆたう燐光だ。
 青白いもやのように浮かび上がったそれは、ひとのかたちをしているようだった。ローティーンとおぼしき、白い少女。ベルトで装飾したエプロンドレスから伸びる手足はまるで乾いた大地のようにひび割れていた。
 彼女が噂のゴーストか。
「あなた、もしかして私が見えてたりする?」
 首を傾げた少女に、男は甘い笑みを浮かべて膝をつく。
「ええ。しっかりと見えていますよ、レディ」
 彼らのほかには、誰もいない。
 
 
 
「この会社にも解析機関アナリティック・エンジンがあるんですか?」
 そうヘンリーに訊ねられたのは、二人で廊下を歩いている時だった。どこでその話を聞いたのかと長谷部が問えば、「オットーが教えてくれました」と苦笑いする。
「もしかして社外秘でしたか? 臨時雇いの俺が聞いてはいけない話でしたら、申し訳ありません」
「いや。お前もうちの『社員』だからな。構わない」
「それならよかった。……失礼ですが、拝見しても?」
 カード〔註:解析機関用のデータを保存するパンチカード。〕には触れませんので、と声を潜めて告げるヘンリーにただならぬ空気を感じて、長谷部は「分かった」とひとつ頷いた。おそらく調査に必要なのだろう。長谷部は解析機関を置いている奥の部屋へ彼を案内した。
 大型の解析機関は珍しい。
 広く機関エンジンと呼称される小型のものであれば一般にも広く普及しているが、特別に解析機関と呼ばれるものを目にする機会は実は少ない。複雑に噛み合う無数の歯車と気圧計、無数のスイッチが取り付けられている、蒸気で動く巨大な階差機関。所有しているのは各国の政府や公的機関がほとんどで、本来であれば民間企業においてあるような代物ではないことを、機械に疎い長谷部もよく知っていた。
「解析機関とは言っても、以前請けた仕事の縁でな。廃棄予定だった旧型のものを格安で譲りうけたと聞いている。そちらにあるような立派なものではないぞ」
 小声でそう言ってから解析機関のある部屋のドアを開けると、中にいた社員たちは珍しい来客に目を丸くしていた。この部屋にいるのは電話の交換手や社外から送られてきた電報の仕分けを行う者たちで、他の部署の者たちがこの部屋に来ることはあまりない。
 解析機関は部屋の奥の壁際に鎮座している。
「……すごいな。ミュラー社Fシリーズの後期型だ」
「は……?」
 ぽかんと口を開けたのは長谷部だけではなかった。室内のほぼ全員の視線がヘンリーに集まっている。しかし当の本人はそれには目もくれずにただうっとりと旧い解析機関を眺めていた。
「チャールズ・バベッジ氏考案の解析機関が知られるようになった頃に、別の機構を用いた機関を模索していたのがミュラー社でして。今ではもうバベッジ式の流れを汲むシュッツ式が主流ですが、ミュラー社の機関は一部のファンからの根強い人気を誇っています。内部機構の露出バランスと送気パイプの曲線が見事で、シュッツ式よりもずっと女性的なデザインをしているんですが、ああ……」
 ほう、と熱い吐息を漏らすヘンリーに、長谷部は思わずこめかみを押さえて低く唸った。そうだ、こいつは己の会社の解析機関に甘い視線を投げかけていた変人だった。
「……つまり、何が言いたいんだ、ヘンリー」
「あ、その……すみません、あまりに良い物でしたので、つい。……整備はどなたがなさっているんですか?」
「整備? そんなもんまともにしちゃいませんよ」
「そんな、勿体ない! あの、もしよろしければ俺に整備をさせていただけませんか?」
「はあ? あんたがか?」
「ええ、心得はありますので」
 そういってフロックコートの裾をたくし上げて見せたヘンリーに、今度こそ長谷部はげえ、と口にした。ベストとコートの裾に隠されて気づいていなかったが、腰には革製の工具ベルトが巻かれ、そこには整備のために必要であろう器具が差し込まれている。あまりのちぐはぐさに他の者も皆ぽかんとしているが、当の本人だけがにこにこと笑ったままだ。
「しかし、臨時採用の人間に機関を触らせるのは……」
「ああ、カードを抜き差しすることは基本ありませんし、なんなら起動させなくても簡単な整備ならできますので」
「しかし……」
「お願いします」
 長谷部はぎくりと体をこわばらせた。ヘンリーがじっと、先ほどの様子からは信じられないほど感情の読めない瞳で長谷部を見つめてきたからだ。口元は笑ったまま、他の者には気づかれない程度の冷ややかさで。どこまでが素で、どこからが演技だったのかの見分けがつかない。この男は不気味だ。そして恐らく――恐ろしいほどに有能だ。技能の有無の問題ではない。目的のために己をコントロールする術に長けている。長谷部は誰にも気づかれぬよう、そっと頬の内側を嚙み締めた。
「そんなにいうんだったら、頼んでもいいんじゃないか?」
 誰かがそう口にすると、社員たちはそれでいいのではという雰囲気に包まれた。その内に混じる数人の仲間たちが、ちらりと長谷部の方を見る。長谷部は大きく息をついた。
「……壊したらただではおかんぞ」
「承知しておりますよ」
 そう言いながらうっそりと階差機関を見つめる姿すら、嘘か真かの判断がつかず、長谷部には気味が悪かった。
 
 
 
 その日もヘンリーはフロックコートの裾が埃まみれになるのも厭うことなく、解析機関の整備を行っていた。それを長谷部は横の椅子に腰かけたまま眺めている。この男が整備を始めてから機関の調子がいいと部屋の者たちからは好評だ。
 いまは二人のほかには誰もいない。外はもう薄暗く、この部屋で働いている者たちはみなとっくに退勤してしまっている。
「お前はよくそんな七面倒なことをやっていられるな」
 ヘンリーの手は機械油で黒く汚れているが、気にしている様子はない。
「道具は手入れしてこそですからね」
「そんな旧式のおんぼろ機関相手でもか。俺には真似できんな」
「例え動かずとも、そこにあるだけで価値がある……そういうものもありますから」
「……やはり俺にはよくわからん」
「そうですか。……そうかもしれませんね」
 整備が終わったのだろう。きれいに折りたたんでいた拭き布で床に置いていた工具を磨きながら、「そういえば、ミスター・ハセベ」とヘンリーが話を切り出した。
「恐らくですが、内通者が分かりましたよ」
 まるで世間話のように告げられた言葉に、長谷部は思わず息を止めて目を見開いた。
「……恐れいったな。まさかもう見つかるとは」
「大したことはしていないんですけどね。俺が彼女の整備を始めてから、しきりにこちらの話を聞きたがるようになった者がいましたので。あまり褒められた話ではないのですが、彼の荷物を探らせてもらったところ、気になるものがありましたので。書き写したものがこちらです。……俺には何のリストなのかはわからないのですが」
 工具と己の手を拭き終えたヘンリーが、胸の内ポケットから一枚の紙を取り出し、長谷部に差し出した。そこには一部の社員の名前が列挙されており、長谷部の名前もその中に含まれていた。間違いない。それは長谷部と仲間たちの名前だった。
「そちらの名簿に、心当たりはありますか?」
「……確かに。これは我が社のなかで、特別なプロジェクトに携わっているメンバーの一覧だ。詳細は話せないが、これこそ社外秘の情報だ」
「そうでしたか。……ご依頼を果たせそうで何よりです。他にも彼が外部の人間と接触しているところも押さえましたので、そこから流出ルートも調べられるかと思います。……他の企業からの依頼であれば、このまま対処まで行いますが」
「いや、……ここまででいい。ここから先は我々の手で行おう」
「かしこまりました」
 長谷部は壁に背を預けたまま、細く、細く息を吐いた。この風変わりな男は長谷部が何か月もかけて見つけられなかった内通者を、たったひと月で探し出してしまった。主人の判断の正しさと同時に、お前は無能だと言われているような心地だった。
 だからこそ、内通者の始末はこの手でつけなければならない。
「それで? その内通者は一体誰なんだ」
 長谷部の問いに、ヘンリーはいままでにないほど静かに答えた。
「内通者はオットー・ギブスンです」
 
 
 
 名前を告げた瞬間の、あの顔は見物だった。持ち込んだ荷物を片付けながら、男はひとり忍び笑っている。まさかあのオットーが? そうありありと顔に書いていた依頼人の姿を思い起こせば、つい笑わずにはいられない。
 これで依頼は完了だ。
 実家の父親が急病で倒れたので、家に戻らなくてはならなくなった。そんなありふれた設定を打ち出したのが一週間前。男は明日この会社を後にする。
「ねえ、もういなくなっちゃうの?」
 そう言って彼の背にぶら下がるのは、青白く浮かびあがるゴーストだ。何度か顔を合わせるうちにずいぶんと懐かれた。まあ、それも仕方がないだろうとは思う。
「はい、明日にはここを発つ予定です」
「つまんないの。もうあなたには会えないのかしら」
「近いうちにまた来ることになりますけどね」
「本当?」
「ええ。……ただし」
 少女のなめらかな指先を撫でながら、男は微笑む。
「その時は、レディ。俺は貴方を殺すことになる」
 そう、と答えた少女の声は、心底どうでもよさそうだった。
 
 
 
 夜の公園は静かだった。
 長谷部がふう、と息をつくと、白い吐息が街灯に照らされながら宙に溶けた。『同業者ヘンリー』が会社を去ってから、二ヶ月余りが経っている。季節はもう冬だ。夏の時期は物乞いや酔っ払いがそこらに転がっていることも多い公園だが、この時期になるともう外で夜を明かそうとする者はいなくなる。
 はらり、と長谷部の目の前に雪が落ちてきた。それを皮切りに、薄墨を何度も塗り重ねたような空からはらはらと雪が降ってくる。寒いわけだ、と長谷部は思った。
「よう。待たせて悪りぃなあ」
 そう言いながら呑気にへらへらとやってきたのはオットーだ。ポケットに手を突っ込んだまま、ぴょこぴょこと小走りで近づいてくる。白々しい男だ。オットーを睨みながら長谷部は、得物を握り彼へと向けた。
 
「――貴様、刀剣男士だな?」
 
 ガウン、ガウン! と蒸気銃を続けて二発。一発は脇腹を掠めたのみだが、もう一発は確実にオットーの腹部を撃ち抜いた。
「あいたッ」
 撃たれた衝撃でどさりと後ろに倒れこんだオットーだったが、上げた声はその一言である。何なら書類で叩いた時よりも、腹に穴が開いた今の方が反応が薄い。確かにコレは、人間ではないな。オットーを見下ろしながら一歩、二歩と近づく長谷部の後ろに、これもまた人間ではない異形の兵士たちが空間を切り裂くように現れた。
「……ひい、ふう、みい。大太刀に太刀、ヒラの槍、かあ」
 囲まれているというのに、やはり呑気にオットーは現れた異形を指さし確認のように確かめている。化け物め、と長谷部が舌打ちを打ってみせても、へらっとした表情を崩さない。――化け物め。
「夜だっていうのに連れてくるのがそれなんだ、ナメられたもんだよなあ」
 まあ俺も夜は苦手だけどなあ。そう言ってオットーは地面に手をつき、リラックスしたムードで話を続ける。
「それにあんた、怖いもの知らずだ」
「……何の話だ」
「どうせそれも偽名なんだろ? でもなあ、俺らのことなんてちゃんと調べてるんだろうに……『長谷部』なんて名乗るの、俺にはおっかなくてできねえよ」
 オットーが肩を竦めて言い終わるか否かという、その刹那。
 まるで空から降ってくるかのように一人の男が、石礫とともに歴史遡行軍ラッダイトの背後へ音もなく躍り出た。フロックコートをはためかせながらその男は、石礫が槍の異形を襲ったのを横目で見つつ、手に握った刀で一閃。太刀の腕を両断し、タン、と小さな音を立てて着地した。間を置かずそのまま大太刀の間合いに潜り込み、ぬ、と刃先を腹へ押し当てる。
 圧しあてるだけでその刃は大太刀の異形の腹を裂き、その命を奪い取る。骸ひとつ残さぬまま消えた『仲間』の残り火ごしに、頭から血を浴びた男が手袋で目元をぬぐっているのが見えた。
 目くらましの術でもかけていたのか。彼が刀を握った途端に、男は正常にその立ち姿を認識できるようになる。ヘンリー・ハマートンだと? なぜいままで気付かなかったのだ。その姿は間違いない――
「ひとりじめするなよ、へし切ぃ」
「長谷部と呼べ、長谷部と。お前の得物は鞘がなくても重いんだ。運んでやっただけ有難く思え。それにひとり残してやっただろうが」
 なぜ機関二輪バイクに置き去りなんだ、嗚呼、また服を新調しなければ、などとぶつぶつ言いながら、へし切長谷部はいつのまにか傍に置いていたらしい大きな槍を、力いっぱいオットーの方へ投げて寄越した。ほいほい、とそれを難なく受け取り、途端、目に見えぬ速さで距離を詰めた御手杵が、男の横を掠めるような刺突を繰り出し、刀装を剥がされむき出しになった槍の腹部へ切先をずぶりと突き刺した。やはり骸は残ることなく、異形は炎のように立ち消える。
「あっけないよなあ……なあ、長谷部ー。こいつはどうするんだ? 腰抜かしちまってるけど」
「俺が殺しては探偵社ピンカートンが疑われかねん。お前がやれ――と言いたいところだが、『人間は人間の法で裁く』と主は仰せだ。身柄を拘束して引き渡す。前田たちが来る手筈になっているはずだ。別部隊が来るようであれば、前田たちと何とかしてくれ」
「んぁ? そりゃ別に良いけど、長谷部はどこ行くんだ?」
 腰を抜かし動けない男の首根っこをひょいと掴んだまま、明日の朝食を訊くかのような気軽さで御手杵はへし切長谷部に問いかけた。
「すぐに終わるさ」
 はぐらかすように笑う血まみれの化け物の声と、己の後頭部が打ち据えられる音を最後に、男は意識を手放した。
 
 
 
 夜の社屋をへし切長谷部はひとりで歩いている。
 向かったのは解析機関が置かれているあの部屋だ。屋内の鍵は数年に渡る潜入調査をこなしてきた御手杵の手によって、全てのスペアが用意されている。ここは歴史修正主義者が潜伏する企業のひとつで、御手杵はスパイとして数年前に送り込まれていたのだった。親玉の根城こそ突き止められなかったが、彼のお陰でだいぶ有力な情報を探偵社ピン・カートンは得ることができた。
 かちゃり、と静かに錠を外して足を踏み入れる。そこにはあの少女が、旧式の解析機関の上にちょこんと腰掛けていた。最後に見た時にはすべらかな手足に戻っていたのに、また指先が少々欠けているようだった。
「本当に殺しに来たんだ」
「ええ。貴方に恨みはありませんがね、レディ。『けして勘付かれないように』と命じられていますので」
「そう」
 つまらなさそうに彼女――解析機関に宿った魂は、足をぷらぷらとさせながら、長谷部をじっと見つめている。
「それは本体わたしを壊すってことかしら?」
「いいえ。機構には傷ひとつ残しませんよ。足のつくようなカードは残していませんし。念のために貴方の魂を斬るだけです。死人に口はありませんが、貴方には声がある。誰が見えるとも分かりませんからね。口封じをしなければ」
「やっぱり貴方、わるいやつよね!」
「ええ、俺は悪い男ですよ」
 ふたりでくつくつと喉を鳴らすようにひとしきり笑って、それからへし切長谷部は自身を鞘からすらりと抜いた。
 魂を斬り殺しても、恐らく大事に大事に扱われれば、いつかまた命を帯びることもあるだろう。しかしその望みが薄いことは、彼女の欠けた指先を見れば明らかだった。彼がこの会社を去ってからのたった二ヶ月で、彼女の機構はまた軋み始めている。
「しょうがない。諦めるから、痛くしないでね」
「ええ、勿論ですよ」
「整備をしてくれてありがとう。いつかまた会えたら遊びましょう」
「ええ。――それでは。ご機嫌よう、レディ・フロイライン」
 ミュラー社のFシリーズ。フロイラインの名を冠する解析機関の魂は、微笑んだままそっと目を閉じた。
 
 
 
「ふぃー、今回の任務は疲れたぜえ」
 機関二輪の運転席に跨ったまま、御手杵がけだるげにそうぼやく。後ろのシートに腰掛けて、長谷部は小さく苦笑いした。
「年単位の潜入、ご苦労だったな。これだけ長くヒト暮らしをしていたんだ、しばらくはお前は実働部隊に回されるだろうさ」
「おっ、それはいいや!」
 適性があるせいで潜入捜査に回されがちだが、戦う方が性に合っているのだろう。目に見えて機嫌を直した御手杵が、「それならさっさと本部に戻ろうぜえ」と言って、機関二輪を駆動させた。
「そういやヘンリー。お前本当何しにいってたんだ?」
ゴーグルをつけながら問うた御手杵に、へし切長谷部は軽く肩を竦めて答える。
「ゴースト退治、かな」
「おう……ヘンリーがにっかりニックみたいなこと言いはじめたぜ……」
 御手杵の駆る機関二輪は、フィラデルフィアに向けて走り出した。
 
 
 
 アメリカ、フィラデルフィアにある探偵社ピンカートン本部では、ロビーから中庭越しに解析機関を見ることができる。
 近所の子どもたちなどは解析機関を遠目に眺めるためだけに探偵社へ足を踏み入れたりもする。奥に入ろうとさえしなければ職員たちもそれを咎めず、好きなように見させてやった。
 あの解析機関にはコイビトがいるんだ。子どもたちの間ではそんな噂話が広がっている。毎日決まった時間に身なりのいい美形の男が、うっとりと見つめながら何かを話しかけているのだと。――それを耳にした仲間のひとりがへし切長谷部にその内容を教えると、彼は少し目を丸くしたあと、くすくすとおかしそうに笑いはじめた。
「恋人か。そういう風に見えているとはなあ」
「それだけ熱心に見つめてちゃ、そんな噂もたつでショ、そりゃあ」
「レディへの敬意を表しているだけなんだがなあ、俺は」
「ふぅん?」
 怪訝そうな仲間の様子に気を悪くした様子もなく、長谷部は未だ笑い続けている。
 露出させた歯車。緻密な計算のもと形作られた細いパイプに、蒸気が走り熱を生む。重厚な音を奏でながら役目を果たす鋼の機構。
「これは打ち捨てられたこの世界の俺達さ。……世が世であれば、貴方も俺らの同胞であったかもしれませんね、レディ?」
 レディは静かに、微笑む男を見下ろしていた。

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