エレーナはひとり、豪奢な天蓋つきの寝台で頭を抱えた。
いったいどうしてこうなった。
これは現実逃避ゆえの自問であり、実のところ彼女はこの状況に至った経緯を概ねは理解している。それでも全力で目を背けたい。――いったいどうしてこうなった。
エレーナは辺鄙な山奥の村で育った、齢十五の娘である。背負子の幅よりも狭く険しい崖道を、申し訳程度に張られたロープに掴まって進まなければ辿り着けない、僻陬のド田舎だ。ただし「かなり豊かな」という注釈がつく。
その村では石晶蚕〔セレズナ〕という特別な蚕を育てる養蚕業が盛んであった。石晶蚕の繭からつくる糸は、陽の差さぬ場所にあっても星のような光を散らす。星霧絹と呼ばれるその糸は世界中の貴族から愛され、ゆえに桁外れの高値で取引されるのだ。そして石晶蚕は、特殊な環境と条件が揃わなければ育たない。石晶養蚕を成功させた事例はあの村の他にはなく、星霧絹の流通はすべて村が牛耳っている状態だ。過去に国営化の話も持ち上がったが、費用が見合わないだとか国と村との間で交渉がうまくいかなかっただとか村長が追い払っただとか、そういう理由で計画自体が頓挫して久しい。希少な絹の産地として、財を持つ謎の秘境として、世界中に名を知られるド田舎なのだった。
おかげで教会暮らしの孤児でしかなかったエレーナも、随分といい暮らしをさせてもらった。衣食住には困らなかったし、読み書きにも不安はない。算盤の使い方や星の読み方だって知っている。村の子どもはその生まれに関わらず、養蚕仕事と家事仕事に加えて最低限の教育を施されたし、望めばそれ以上の教養に手を伸ばすことさえ可能だった。他の村ではこうはいかない。
しかしそれは商売に役立つからであって、王城の一室で上げ膳据え膳の生活をするためではねーんですよ。エレーナは頭が内側から引き裂かれているんじゃなかろうかと思うほど酷い頭痛に呻きながら、それでもどうにか言語的思考を保ち続けた。およそ平静とは言えない有様だったが。控えめなノックの音にも、ためらいがちに呼ぶ声にも当然気がついていたが、それに応える余裕はない。静かに扉を開けたメイドが、小さく悲鳴を上げてからエレーナの元に駆け寄った。
「エレーナ様!? お加減が優れないのですか!?」
やめてお願いエレーナ様とか呼ばないで頼むから。胸の内の懇願は届かない。いっそこのまま気を失いたいと心底願ってみても、頑健なこころとからだが「耐えられる」と判断している。細く息を吐いてから、エレーナは覚悟を決めた。「いえ、……大丈夫です。何も、問題ありません」
「そんな……恐れながら、とてもそのようには見えません。医官をお呼びしますので、お休みになられた方がよろしいのでは? グーヴァー様にもお帰りいただくようお願いしましょうか」
「いいえ。それには及びません。むしろ、グーヴァー様がお越しなのでしたら、どうかこちらへお通しください。……あの方だけに、伝えたいことがあるのです」
若き公爵、王国の美しき剣。マルス・ローゼロット・グーヴァー。彼こそが、この状況――エレーナがこんなけったいな場所で過ごすことになった元凶に他ならなかった。
エレーナの育った村には風変わりな習わしがある。
十五歳になった次の月に、村の子どもは旅に出る。一年はゆうに暮らせる路銀と、背負子にしまえる範囲で好きな荷物を詰め込んで、山を下りるように言われるのだ。いつまでに戻れという期限はなく、ただ持たされた路銀をどれだけ増やして帰ってきたか、それだけが問われる。その出稼ぎの成果を基準に、村で与えられる役割や立場が決まるのだ。たとえば今の村長は歴代最高額を叩き出して帰ってきた猛者だという。
成人の儀みたいなものだ。当然村に帰らない者もいたが、あえてその行方を追うことはしなかった。豊かとはいえ閉鎖的な、糸車と算盤に囲まれた村を疎む者だって当然出てくる。この成人の儀は、そういった者を送り出す餞の儀も兼ねているのだ。
さて。この風習は健康な男子は強制参加だが、体の不自由な者や病がちな者、そして女子は自由参加である。別に商売だけが村の仕事ではない。養蚕の仕事はもちろん、畑仕事や繕い仕事、子ども達の世話もある。女であるエレーナは当然村を出なくても暮らしていけたが、自ら手を上げて成人の儀に参加した。私が今後もこの村で暮らすなら必要に違いないと考えたから。
背負子を背に山を下りたエレーナは、初めにこの国で一番大きな港町を目指すことにした。おとな達の武勇伝を聞く限り、最初の目的地は王都に定める者が多そうだったが、エレーナはあえてそちらを選んだ。目的は交易の中心地に本部を構える商業ギルドだ。エレーナが背負子のなかに詰め込んだ『好きな荷物』のなかには、ギルド長への紹介状もある。この試験、自分で考え思いつきさえすれば割と何でもアリだ。村長はにやにやと笑いながら紹介状を書いてくれた。
自分で商いを始める前に、まずは先達の懐に潜り込む。そして彼らが長い時間と労力をかけて張り巡らせた商売の仕組みを学ぶ。知識は誰にも奪えないが、秘匿するのは難しい。環境に飛び込んで貪欲に求めれば、それだけ自分の物にしやすくなるものだ。そして何よりも、その過程で得られるであろう人脈に、エレーナは価値を見い出した。時に人脈は知識にも勝る武器になるし、人脈は知識よりも得難い。そういうわけで、エレーナは同い年の子ども達とは早々に別れ、ひとり港町を訪れた。――そう、此処までは予定通りだったのだ。
さあ、いざ商業ギルドの事務所に向かおうとしていたエレーナの思考を、絶叫が切り裂いた。
「ああああああああお嬢さん逃げてくださああああい!!!!」
は? と訊き返す間もなく、エレーナは暴走する騎竜に撥ねられ、宙を舞い、そのまま落下して地面にしこたま全身を打ち付けた。あまりの驚きに痛みを忘れていた体は、数秒遅れて激痛を訴えた。うわ言と冷や汗が流れ出ているのを他人事のように感じながら、恐らくそこで気絶したのだろう。次に目覚めたのは見知らぬ部屋の寝台の上だった。
「あっ、お嬢さんが目を覚まされましたよ!」
そう声を上げたどこか気弱そうな男の隣には、やたらと見目の美しい、そして身なりのよい男の人がいた。ひと目で高貴な生まれの人だと分かる風貌だ。窓からの光の加減で、緑と紫がまざったような不思議な色の目に見えた。起き上がろうとした彼女を、その人はすっと手を上げて制止した。
「体がまだ痛むだろう。まだ起き上がらなくていい。うちの馬鹿者がとんだ失礼をしたね、エレーナ」
「……あの、わたくしの名前……」
「悪いが荷物を改めさせてもらった」
「ああ、成程……そういうことでしたら、伺ってもよろしいでしょうか」
「うん?」
「ここはどちらで、わたくしはなにものなのでしょうか……?」
――エレーナは記憶を失っていた。