二年生の頃のお話
時の流れはかくも早い。
ついこの間二年生に上がったばかりだと思っていたのに、気がつけばもう冬休み前である。期末試験も終わり、生徒達は帰省を前にそわそわと落ち着かなくなる。年末年始をどこで過ごすだとか、どこそこのパーティーに顔を出すだとか、そういう話が朱雀寮の談話室に飛び交うようになる。
そんな中、安達国永はひとり、猛烈に、不機嫌であった。
「なんていうか……そんなに落ち込むなよ、永……」
「そうですよ、女に間違えられるなんて、僕もしょっちゅうですよ」
「間違えられるだけなら良いだろう……」
二年生になって、彼らにも後輩というものが出来た。
まだまだ低学年の域を出ない彼らも、一年以上過ごせばだいぶこの学校に慣れてくる。九月の入学式では初々しい新入生達を眺めて可愛いなあと言うくらいの余裕があった。それからは各々、仲の良くなった後輩に掃除や授業のこと、それからあの先生やセンパイは気難しいだとか、そういう話をこっそり教えては先輩面をしているのだ。
ただし安達国永は、他の同級生達と少々、様相が異なっていた。
「二年になってから、もう四人目だぞ……そろそろ噂になってもいいだろう……!」
「貴方、無駄に美少女顔ですからねえ。他の寮の先輩方も、面白がって黙ってるんじゃないですか」
「俺は、ちっとも、面白くない」
何が四人目なのかといえば、国永に告白してきた一年生が、である。
今の時代、小中学校で恋人がいるなんて話はザラだ。どのくらい本気なのかはともかくとして、年上の先輩に告白するのだって、そう珍しくもない話だろう。現に二年生にはもう交際をしていると評判の者達だっているし、それについてとやかく言うつもりはない。むしろかわいい後輩の女の子から告白されていれば、受けるかどうかは別にして、国永もまだ素直に喜んだに違いなかった。
四人が、四人とも。国永を女と見間違った男でなければ。
朱雀寮にはそんな猛者はひとりもいない。というのも、良家の子女が多い朱雀寮の新入生は、入学前から五城安達の『長男坊』が香久槌にいることを大人たちに聞かされている。ひとたび彼が名を告げれば、すぐにその『長男坊』だと理解されるのだ。
だがしかし、よその寮ではその限りではない。五城安達の名前を知らぬ者こそいないが、国永の姿を見ただけでそうと分かる者はあまりおらず、廊下で見かけて一目惚れしたという一年生が後を絶たないらしかった。比較的よく顔を出している玄武寮ではだいぶ知れ渡っているようだったが、白虎寮と青龍寮の一年生からは、白雪の君などというあだ名で呼ばれているらしいという恐ろしい噂まで耳にした。
「昨日は先輩方にまで白雪の君と声をかけられた……」
「ほら、もう完全に面白がられてるじゃないですか。声変わりが来るまでは諦めた方がいいんじゃありません?」
「ぐぬう……」
今でこそ唸るくらいで済んではいるが、実の所、国永は女に間違えられることをひどく嫌っている。幼い頃などは女と間違えられるたびに相手に殴りかかり力を暴走させ、母親からこっぴどく叱られていた。ちなみに国俊はその被害者の一人であるため、今も隣で戦々恐々といった様子で国永を眺めている。
国永とて、言っても仕方がないとは分かっているのだ。なにせ彼は、あまりに母と似すぎている。
「第一、その長い髪がいけないんじゃないのかい?」
国永にそう言ったのは、あの一件以来すっかり仲良くなってしまった女怪である。あの日の晩はいかにも異形らしい姿であったこの女も、普段はたおやかな女性然とした出で立ちで英語教諭――香久槌では四年生まで、葦人と同じ義務教育もカリキュラムに組み込まれている――京極青江に与えられた準備室に居座っている。たまに彼女の足元で小さな蜘蛛が何かをもぐもぐと食べているので、恐らく蜘蛛の化生なのだろう。余談だがこの女怪、青江と並ぶとまるで双子に見える。
僕が赴任してから彼女、僕の真似をし始めちゃってね、といつだったか肩を竦めながら教えてくれたその英語教師は今は此処にいない。女怪が我が物顔で灯油ストーブに火をつけ、温まった準備室の中でふたり、温まりながら話をしている最中だった。
さて。女に間違えられるのはその長い髪のせいなのではと、指摘された国永はきょとんと目を丸くした。
「髪」
「そうさ。昔むかしならいざしらず、人の世の男たちはみィんな、髪を短く切りそろえているんだろう? 祝ぎ者にはまだ髪を伸ばす男も多いけどさ。若い子達を見ていたら、だいぶ少ないみたいじゃないか。国坊は特にきれいな髪をしているからね、女だと思うのも仕方ないんじゃないのかい?」
「……盲点だった」
そう、言われるまで国永は、まったくそのことに思い至っていなかった。
祝ぎ者には髪を伸ばしている者が多い。髪には力が宿ると思われているし、実際に毛髪を使う魔法は数多くある。藁人形なんてものは葦人にさえ有名だろう。実際には髪の長さによる違いはさほどないらしいが、それでも旧家や古いしきたりを守る家では髪を伸ばすのが慣例だ。左合の家などは三兄弟みな長髪である。
国永は特に言いつけられて伸ばしている訳ではなかったが、周りにそういう家が多いのもあり、疑問を感じたこともあまりなかった。
しかしそれこそ他の寮には、あわい者も多いのだ。彼らの社会的な性差の感覚が、葦人のそれに近いのは想像に難くない。むしろなぜ今まで気が付かなかったのだろうとさえ国永は思った。
「……髪を短くしたら、少しはましになる、か?」
「おや。切ってもいいのかい?」
「別に駄目とは言われてないからなあ」
「何なら私が食べてやろうか」
「いや、それは遠慮しておこう」
「あらあら、残念」
くすくすと笑う姿を見れば冗談だとは分かるが、からだの一部分だ、そう安々と異形に与えていい代物ではない。しかし、そうか。髪を切る、というのはなんだかとても魅力的なことのように国永には思えた。束ねた己の髪をやわく撫でながら、これがもしなくなったらと夢想する。うなじは寒くなるだろうが、夏はかえって涼しくて良いのではなかろうか。手入れもきっと楽になる。
「……ふむ」
く、と銀色の髪を握りこみながら、国永は考えた。
鋏と櫛を手に準備室へ駆け込んだ国永を、廣光は顰め面を隠そうともせず、金色の目でぎろりと彼を睨みつけた。
「それで、何故俺の所に来る」
「先生に切ってもらうのが一番だと思ってな!」
国永の言葉にますます廣光の表情は険しくなった。しかしこの教師が案外人がいいというのも、押しに弱いというのも国永は知っている。皆すすんで関わりあいになろうとはしないからこそ知らないだけで、伊達廣光という男は存外繊細で、そしてお人好しだ。
いつだったか、国永の父母に不義理をしたと口にしたのが良い例だ。国永に言わせてみれば、連絡を取らなかったことで廣光ひとりがどうこう言われる筋合いはない。なにせ国永の母は五城安達のご当主様だ。父の光忠だって名家と名高い水戸部家の生まれである。二人の力さえあれば、葦人にまぎれていようが廣光ひとりくらい、簡単に探しだせたに違いないのだ。なのに一度も連絡を取り合っていなかったということは、父母の側も積極的に探そうとはしていなかったということに他ならない。友人だと、母のみつるは口にしていたが。
廣光もそのことが分からぬほど世間知らずなはずがない。それなのに己の不義理だと言いきったのは、彼らの息子である国永を前に、他の言い方が思いつかなかったというのもあるのだろう。本当にこの先生はお人好しだ。だからこんなクソガキにいいようにされる。
「これだけ長いと、適当に切るのは多分あまり良くないんだろう?」
「……寮で切り落とさなかったところだけは褒めてやる」
「だろ? で、面倒なことに『俺』の髪だ、下手な相手にゃ頼めないじゃないか」
五城安達の長男坊の髪なんて、力云々を抜きにしたって欲しがる奴らはごまんといる。後ろ暗い奴らは特に。別に、他の人間が信用できないという話ではない。ただ、誰が一番信頼できるかといえば、国永にとってはこの無愛想だが優しい教師の他にいなかった。
「もうすぐ帰省だろ、家に戻るまで我慢すればいい」
「絶対やだね」
「なぜ」
「禁止されちゃあいないし、母さんは何も言わないと思うんだがな?」
「……」
「絶対、確実に、父さんが渋る」
見た目をすごく、とても、すごく気にする父親だ。幼い国永の髪を丁寧に梳いていたのは母のみつるではなく、父親の光忠だった。今でこそ己で手入れをしている国永だが、あの父は息子の頭を撫でるついでに、息子の髪を触っているのではないかと思う節がある。
断言する国永に、色々と察したらしい。どことなく虚ろな目で沈黙してしまった廣光に、父さんのアレは学生時代から健在だったのかと国永も一緒に黙りこんでしまいそうになったが、ここで畳み掛けなければ意味がない。
「父さんに色々言われる前に切ってしまいたいし、こういうのはほら、思い立ったが吉日というだろう?」
「……どうして、そこまで髪を短くしたがるんだ」
「女に! 間違えられるのが! 嫌なんだ!」
その言葉を聞いた廣光が、あまりにきょとんと国永を見つめるものだから、国永はなんだかいたたまれない気持ちになったものの、今更後には引けず、じっと金色の目で金色の目を見つめ返した。
ふ、と男が目を細める。
「まあ、少しはマシかもな」
うわ、と国永は思わず目を丸くして、ぱくぱくと口を動かしたが、戸の方へ歩き出した廣光は気が付かなかったようだった。笑ったところ、初めてみた。あんなふうに笑うのか。
固まったままの少年をよそに、廣光は準備室の引き戸を一端開けて、そのまま閉じた。ぴしゃり、と木製の戸に嵌められていた曇りガラスが鳴った音で、ようやく国永ははっと気がつく。外の音が聞こえない。廣光の手で空間が閉ざされたのだ。
「そこに鋏と櫛を置いて、椅子に座れ」
出来はあまり期待するなよ、と言う廣光はまだうっすらと微笑んでいて、なんだかどうにも、心臓に悪い。国永はぎこちなく頷いて、言われたとおりに椅子に腰掛けた。
しゃく、しゃく、と鋏の音が頭の後ろで響いている。
「なあなあ、伊達先生」
「何だ」
「伊達先生は、母さんのことみつるって呼んでたんだろ?」
「……」
「俺のことも、安達じゃなくて国永と呼んじゃくれないかなー、なんてな」
「……生徒ひとりを、特別に名で呼ぶ気はない」
「そう言いながら、左合のことは宗介と名前で呼んでるじゃないか」
「宗介は上に兄がいるだろう」
「俺だって再来年には弟が入学してくるぞ? それはもうお父様似のかっわいーい弟が」
「…………」
「先生にそのつもりがないのは分かってるんだが、安達安達と呼ばれるのはどうにも、好きじゃなくてなあ」
「……、…………喋っていると髪を食べるぞ、国永」
くふふ、と国永が笑う間も、鋏の音はしゃくしゃくと鳴っていた。
「なんだ、先生やっぱり器用じゃないか」
準備室の端にある洗面台の鏡を覗き込むと、すっかりと髪が短くなってこざっぱりとした姿が映り込んでいた。前髪もついでに整えてもらったが、美容師がやったと言っても信じてもらえそうなくらいの出来である。
「帰ったらお抱えの美容師にでもちゃんと整えてもらえ。こんな鋏じゃまともに切れない」
「これでも十分だと思うがなあ」
「光忠をあまり困らせるな。……国永、タオルを広げて持ってろ」
「? ……こうか?」
「ああ」
椅子の所に戻って、散髪のあいだ肩にかけられていたタオルを言われたとおり広げてみせる。すると廣光はどこからともなく扇子を取り出した。ほんのすこしだけ開いた羽から、墨で描かれた梅の木が覗いている。廣光が半分も開いていないそれでふわりと宙を扇ぐと、きらりと何かが光りはじめた。
あ、俺の髪か。そう国永が気がついたのは、持たされたタオルから銀色の髪がばらばらと剥がれるように離れて、まるでテグスにでも繋がれているかのようにしゅるしゅると廣光の前に集まり始めたからだ。電灯に照らされてきらきらと反射する髪は、ひとりでに細く長い紐のように編みあがっていく。
銀色の髪で作られた紐は幾重かにまるく巻かれた状態で、ふわりと廣光の手の中に収まった。
ぽたん、と扇子を閉じた廣光は、先ほどまで国永の頭にひっついていたその紐を彼に差し出した。
「……そら。持って帰って、焼くなり漱ぐなり好きにすればいい」
「おお……何というか、いたれりつくせりだな先生……」
「……毎度押しきれると思うなよ」
「あ、はは。肝に命じておくよ先生。有難う」
「それから、俺が切ったという話はするなよ。特に光忠には」
「そりゃあ勿論!」
にやりと共犯者の顔をした国永に、廣光はもう一度小さく笑った。
冬休み、帰省した国永の頭を見た父が、大絶叫したのはここだけの話である。