新年の挨拶に代わりまして、祖母の話をひとつ。

あけましておめでとうございます、と言っていいのか? 12月に歳を取ってアラサーの称号を返上しなければならぬ利鷹です。

 

しばらくブログ更新が滞っていて申し訳ありません。拍手コメント、拍手ぱちぱちありがとうございます! サイト制作をなさっている方々にありがたいお言葉をいただいたり、二次創作にぱちぱちいただいたりしていただいてとても嬉しいです。

あと体感でしかありませんが、ワールドカップの後から「ブラボー!!!」の拍手コメントをいただくことが増えた気がしてちょっと笑っています。有難うございます~!

 

実は12月の頭に祖母が他界しました。

 

とはいえ親族一同、忌中の雰囲気が一切なく、ふつうに「あけましておめでとう」と言い合っている状況です。

なにせ祖母は享年、数えで103歳。だれがどう見たって大往生です。

導師の方に「どうぞ拍手で見送ってください」と言われるような葬儀でした。

 

今日は身バレを覚悟で祖母の話をネットの海に放流しようと思ってやってきました。

旦那さんや知人の一部にはもう話をしているのでそれで良し、とも思ったのですが。「うちのばあちゃんすごいんやで!」と自慢しておきたい孫心の発露とでも思っておいていただければ幸いです。

 

母方の祖母は、ちょっとよくわからない働き方をしていた人でした。

 

祖母の子どもは5人。私の母は末の娘だったんですが、その母が小学生のころに夫を亡くし、以来女手ひとつで5人の子どもを育てたひとです。

私が会ったことのない母方の祖父は地域の大工の棟梁だったそうで、それまでは羽振りの良い生活をしていたそうですが、祖父の死後は生活が一転し、聞いてるだけでも働きづくしの生活を送っていた様子でした。

家で煙草屋を営みながら、傍らで旅館の浴衣を縫う和裁の仕事を請負い、深夜には観光バスの清掃業をやっていたと言います。母曰く、「母が就寝・起床するところを見たことがない」「どんなに忙しくても食事の時にはかならず食卓について、にこにことごはんをよそってくれていた」。

わりとこのエピソードだけでもすげえ人だな、と思います。正直これ出来る人間はそうとう稀なので、上記を読んで「ふつうのことじゃん」と思った方はちょっと色々顧みて、どうぞ。と思います。閑話休題。

 

そんな祖母は、熱心な日蓮宗の信徒でもありました。

 

葬儀の時にはじめて全容を聞いたのですが、祖母は子育てがひととおり終わって、色々なものが落ち着いた60歳の頃から、90を過ぎて体調を崩すまでの三十余年、毎日早朝からお寺に通う生活をしていました。いや「おばあちゃんお寺にいつも行ってるなー」とは思ってたけど30年続く習慣だとは思ってなかったよ。

 

お寺の婦人会に参加し、大晦日やお彼岸の時にお寺のお手伝いにも行っていました。地元の護国寺において祖母は有名人のようす。田舎なので名乗ればだいたい「あら、どこどこのお宅のお嬢さんなの」と把握される地域の生まれなのですが、年嵩のご婦人からは結構な頻度で「ああ、あそこのお孫さん」と認識されていた節があります。

 

さらにこれも葬儀の時に知ったのですが、祖母は日蓮宗の総本山である身延山久遠寺に10回ほどお参りにいっていたそうです。

 

地元・イズ・長崎県。身延山久遠寺・イズ・山梨県。グーグルマップ曰く片道11時間くらいかかるよ。嘘でしょ。60歳過ぎてからそんな旅程10回もこなしてんの???

 

そんな祖母の葬儀には、賞状が4枚飾られていました。

3枚は100歳のお祝いのときに総理大臣・長崎県知事・地元の市長から贈られた賞状。この頃はまだ安倍さんだったんだねえと話してたんですが、もう1枚はよくわからない、なんだろう。

お通夜の時、導師の方が教えてくれました。

「右手においてある賞状はですね、お祖母様が総本山の身延山久遠寺に10回お参りにいって、その時に『あなたが浄土に旅立つときには、日蓮上人がきちんとお迎えしますよ』と約束しました、という内容の賞状です」

 

 

極楽浄土にもVIP待遇ってあるんですね??????

そしてそんなVIP待遇受けるのおばあちゃん??????

 

 

葬儀は葬儀で、お寺から蓮の形のろうそくが特別にお供えされていたり、お経の後で聞いたことのない数え歌を婦人会の方とお坊さん達が歌っていたり、戒名に総本山のお寺の名前頂いていたり……何か……VIP待遇すげえな……という気持ちが強くわき起こる法要となりました。

 

 

「あー、おばあちゃんの死後の道行きは何も心配しなくて大丈夫だなあ」

 

 

ふ、とそう思って、なるほど信仰には残される人間を安心させる力もあるのだなあとぼんやり考えたりしていました。元々葬儀は遺族のためのものだと考えていたところはあるんですが、なんというか……生前の祖母の信心のおかげで、私や他の親族はその死を穏やかに見送ることができたみたいな所があるなあ、と感じた次第です。

 

私は宗教的感覚は人並み程度にあるけれども、宗教的慣習にはあまり馴染みのない生活をしています。ただ、もし子どもができたりしたら、そういう慣習をすこし取り入れるのも功徳のひとつかもなー、なにかを信仰するときには周囲のひとを支える功徳になるかというのは考えながらやりたいなー、と思ったりしていた年末年始でした。

 

祖母はもしかしたら49日を待たずに日蓮上人の導きで仏様になって衆生を見守ってるかもしれないと導師の方も笑っていたので、もし皆さんの新年に御仏の加護を感じるようなことがあれば、そのひとかけらは祖母のご挨拶かもしれません。かなり頑固ですが人懐こい笑い方をするかわいい祖母です。皆様のところに祖母のちょっとしたご挨拶がありますようにと願いながら新年のご挨拶の代わりとしようと思います。

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

生活は不要不急に彩られている

とりとめのない話を書こうと思う。

 

私は長崎の田舎で生まれ育った。

田舎とはいえ、頭にドとつくほどじゃない。そこそこ栄えた田舎である。
バブルの時期に色々開発しようと頑張ってみたものの、力及ばず、地方都市になれずに終わった。そういう感じの町だった。車で15分ほど走ったところにイオンと蔦屋とダイソーがある。これで何となく、どういう場所かイメージがつく人もいるんじゃなかろうか。

私が小学生のころに、町で唯一の映画館が休館した。

それまで私は毎年、母に連れられてドラえもんの映画を見に行っていた。劇場でもらえるおもちゃできゃいきゃいと遊んでは部品を壊していた記憶がある。
そんな幼い頃の思い出がつまった映画館は、休館したその数年後に「土日祝だけ営業」という形態で営業を再開したものの、いつのまにかフェードアウトするように廃業した。

映画館がなくなった時に、私は「ああ、この町は都会になりそこなったのか」となんとなく思った。

以来、地元の人間は「映画館に行きたい」と思ったら、電車を乗り継いだり自動車を走らせたりして、長崎市に行かないといけなくなった。他にも選択肢がない訳ではなかったけれども、どこを選んだところで1時間半以上の移動が必要になる。あの地域で最新の映画を観るのは中々にハードルが高い。近所に蔦屋が出来て多少環境は改善されたが、それだってレンタルが始まるまでは観られない。
いま思い返すと、映画に行く週間が途絶えてから漫画を買う冊数が著しく増えた。もしかしたらあの町に映画館がずっとあったら、漫画オタクじゃなくて映画オタクになる未来もあったのかもしれない。(いやそれはないと脳内でだれかが突っ込んだ。)

地元の映画館が潰れた後、ひさしぶりに映画館で観た映画は『ハリー・ポッターと賢者の石』だったと思う。

中1のころ、近所の書店に静山社の『ハリー・ポッター』シリーズの1巻、2巻が並びだした。当時はまだインターネットやスマホなんてなかったから、『ハリー・ポッター』という児童書が流行っているなんて地元の誰も知らないくらいだった。都会の流行は数年単位で遅れて届く。周りのだれもハリー・ポッターを知らなかったし、当然私も知らなかった。ただ、その書店の品揃えに絶大な信頼を寄せていた。とりあえず流行りものは確保してくれていたし、いま思うと中々ニッチな本も小数部ながら揃えていた記憶がある。あの町のオタクは、その店とコトブキヤ(※今は存在しない九州ローカルのスーパー)の4階に入っていた本屋から供給を受けていたはずである。

とりあえず1巻を買う。
徹夜で読破する。
2巻を買う。
徹夜で読破する。

こんな感じでハリー・ポッターを一気読みし、友人や学校の先生、はては親に連れられていた飲み屋のママなどに勧めまくった。そうこうしているうちに、映画公開前の宣伝がテレビで始まり、皆がハリー・ポッターの名前を知るようになった。
「利鷹ちゃんがオススメするものって絶対あとで流行るよね」と飲み屋のママに言われたことがあるが、行きつけの書店が都会の流行をきちんと追いかけてくれていただけである。
(あと書いてて思ったけど、中学生の頃から私は自重しなさすぎだ。国語教師に中二病の症例に満ちたオリジナル小説を読んでもらっていたりとか、市の吹奏楽コンサートのポスター制作に立候補してエルフ耳のイラスト市内中にばらまいてもらったりとか、自重のなさに関しては他の追随を許さないところがある。)

その年の12月、誕生日プレゼントとして、父の車で映画館に連れていってもらった。……ということを、この記事を書き始めてから思い出した。よく思い出せたな自分、とちょっと驚いている。

私は誕生日に映画館に行くことをねだる程度には、映画を観ることが好きだったらしい。

それでも誕生日のような特別なイベントでもない限り、映画館に行くことは滅多になかった。だって電車で映画館に行こうと思うと、片道2000円くらいの電車賃がかかる。映画1本の料金と往復費用だけで、月のお小遣いをゆうに飛び出た。高校に入ってからは演劇部の活動が楽しかったし、相変わらず漫画が好きだったので、時間と予算はそちらの方に回された。

さて、大学進学のために上京した私が意気揚々と映画を観に行きはじめたかといえば、そういうわけでもなかった。当時はまだひとりで映画館や喫茶店に入る度胸がなく、同郷の友人と出かけることの方が多かった。カラオケ、猫カフェ、東京ディズニーランド、東大演劇サークルの舞台公演、東女かどこかの狂言サークルの催し、トリックアート美術館、男装喫茶、同人誌即売会、エトセトラ。他人と一緒だとこのオタク、フットワークがやたら軽い。

ひとりでふらふら歩き始めるようになったのは、たしか大学2年の頃だった。
上野の美術館で展示されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』が見たかったのだ。友人の誰かと一緒に上野まで行った記憶はあるのだが、何らかの理由で『受胎告知』観覧の行列にはひとりで並んでいた。多分あれが私が死ぬまでに直接みる絵画のなかで、一番有名な作品になるだろうと思う。生でみた『受胎告知』はちょっと、表現が思いつかないくらいきれいだった。

そのあたりから多分、色々と箍が外れた。ひとり歩きが楽しくて、いろんなところに通うようになった。飲食店もひとりでぽんぽん入るようになった。喫茶店と勘違いしてフレンチの店に入った時はどうしようかと冷や汗をかきながら三千円のランチを食べた。ルポライターの方ですかとシェフに聞かれたときのいたたまれなさといったらなかった。

初めて作るオフセット同人誌の入稿方法がよくわからず原稿を引っさげて印刷所にお邪魔した。高校時代に憧れたキャラメルボックスの公演を観に行った。akeboshiの演奏を聴くために薄暗いライブハウスでコークハイを飲んだ。大学で授業を受けていた先生の文芸トークショーを聞きに池袋のバーに飛び込んだ。ひとりで映画館に足を運ぶようになったのもその頃だ。東京で最後に観た映画は3D映像がすごいと噂になった『アバター』だったと思うが、あれは多分二度と見ねえ。私には合わなかった。

そんな都会の遊びは卒業後、実家に戻るとできなくなった。当然である。映画館さえない町で、大学生の頃のような遊び方ができるわけがない。

唯一昔と違うのは、私にも少ないながら収入があった。

家庭教師のバイトをして、医療事務のバイトをして、小さなシステム会社の社員になった。実家にいくらか生活費を渡したら、あとは貯蓄と趣味に回った。初めて私は自分のお金で長崎市に行き、映画を観た。『シャーロック・ホームズ』『不思議の国のアリス』『相棒Ⅱ』『借りぐらしのアリエッティ』『るろうに剣心』あたりは長崎の映画館で観たはずだ。

自分のお金で電車に乗って映画館に行けることに、少しだけ大人になった気分を味わっていた。

関西に飛び出してからは刀剣乱舞の影響で刀剣を見に行った。へし切長谷部が推しだけれども、北野天満宮の小猫丸もなんとなく好きだ。来派の刀はデザインがキマりまくってる感じがしてちょっとどきどきする。大倶利伽羅はきれいな刀だと思った。三日月宗近はちょっとこわい。

映画館に行く回数も増えてきた。『イミテーション・ゲーム』以上に『シークレット・オブ・モンスター』はしんどかった。『LUCY』は好きかと言われると普通なんだけれども、性癖が小骨のように刺さっていて忘れがたい。『美女と野獣』はエマ・ワトソンが可愛かった。『マレフィセント』は元の『眠れる森の美女』に対してよくもまあこんな超解釈をしたな、と思った。『キングスマン』で脳みそが飛び上がるシーンに笑い、『ゴティックメード』の美しさにため息をつき、最近ではネトフリでTVアニメから『Q』までマラソンした後に観た『シン・エヴァンゲリオン』に、よくわからんが頑張ろう、と思った。

思い返すと私の生活には、不要不急が至るところに転がっている。

今年のゴールデンウィークは緊急事態宣言の影響で色んな不要不急が制限されている。私は専門家じゃないので、みんなが心穏やかに過ごせるようになるまでどのくらいの労力が必要なのか分からない。ただ、いつかその労力が報われた時に、不要不急をこれだけ楽しみながら生活している人間がいるということが、忘れられでもしていたら大層困る。
というわけで草の根活動的に『ぼく/わたしの不要不急』みたいなノリでこの記事を書き始めた次第だ。なので特にオチらしいオチがない。

『閃光のハサウェイ』も観に行きたいなー、『呪術廻戦』の映画も楽しみだなー。大きい本屋さんの空気を吸いに行きたいなー。
世間を気にせずのんびりと不要不急の外出を再び楽しめる日が来ることを願いながら、いまは引きこもり生活を満喫中だ。

さて、BL小説のネタでも練ろう。

私が高村玲緖だったころ。

祝!!! 広告!!!!! 掲載!!!!!!!

唐突な雄叫び失礼しました。
年賀イラストの方でもご挨拶しましたが、ブログでも改めて。
明けましておめでとうございます。利鷹です。(ご挨拶が小正月に間に合ってよかった……)

昨年の11月にサイトをプレオープンして、そろそろ2ヶ月弱。
できたてほやほやのサイトをいろんな方にご覧いただいたり、日常アカウントの方でも皆さんにかまっていただいたりと大変ありがたい1年でした。
今年ものんびりサイト更新を続けていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

ところで先日、高校時代に部活でつくった文芸誌をパラパラと眺めていたんですが、なんとびっくり自分のPNを見たら今とおんなじ『利鷹』でした。
この時代からペンネームこれでしたねそういえば!!!!! と思い出して、ちょっと白目むきそうになりました。
15年もこのペンネーム使ってるのか……このブログ高校時代の知人が見たら即身バレする可能性があるってことか……まあいいけど……

そんな感じでずっと長く使っているPN(HN)ですが、実は数年間、別のHN(それも複数)で活動していた時期があります。
そのHNのひとつが、高村玲緖でした。

目次

高村玲緖は何をしていたのか

ちょっと色々考えて、利鷹名義のアカウントから離れて活動しようと思って作ったのが高村名義のpixivアカウントでした。

活動ジャンルは刀剣乱舞、小説メインでくりつるでへしさに、その他特殊解釈オンパレードの人を選びそうな作品でしたが、思いの外色んな方に読んでいただけました。巨大ジャンルすげえ……と思ったのを覚えています。(当時の作品はほとんど二次創作のページにアップしていますのでご興味のある方はそちらをご覧ください。)

twitterでも色んな方とおしゃべりさせていただいて、楽しく活動させていただいていました。そしてしばらくしてから刀剣乱舞の二次創作サイトを立ち上げました。

うん。この腐女子、別名義でもウェブサイト作ってたんですよ。
さらにそこから色んなご縁があって、他の方のウェブサイトを作らせていただいたりもしていました。

例えば刀剣乱舞の合同誌の告知サイトを作ったり、

日野杏寿先生の画集の告知ページを作ったり(※音が鳴ります、ご注意ください)、

栗原ちひろ先生の情報サイトを制作させていただいたりしていました。

他にもいくつか合同誌の告知サイトやポートフォリオ用ページ制作のお手伝いをしていました。
見覚えがある方は指さして笑ってください。私でした。

ついでにウェブ制作を副業にできないかなー、とぼんやり考えて作った個人サイトもあったりします。

広告代理店とかいう魔境に入社してからは、激務が恒常化したのと、利鷹としての活動が徐々にまた増えてきたことで、高村としてのウェブ制作はほとんどできなくなりましたが……。

他にも初めての小説同人誌を発行させていただいたり、合同誌にお邪魔させていただいたりと高村玲緒という名前でずいぶんと得がたい経験をたくさんさせていただきました。
これからは利鷹として活動していこう、と決めたものの、高村としての経験や活動は私の宝物なので、できるだけまるっと持っていきたい……。ということで今回、高村としての活動がどんなものだったのかを皆様にお伝えしようと思った次第です。

HNを変えても活動ジャンルを変えても私は私だった

話はごろっと変わりますが、利鷹という名前はラテン語の「leoライオン」の綴りから決めた名前でした。
発音は多分「れお」より「りおう」に近いから、「りおう」という音に漢字を宛てよう。そう思って電子辞書で延々と漢字を見比べていた記憶があります。

「鷹」の字を見つけたとき、「あっ、グリフォンじゃん」と思ってそのまま採用しました。

鷹の頭と、獅子のからだ。知識と財宝を守るといわれているらしい、いかにも強そうな伝説上の動物。
同時にいつかネットでみつけた、「獅胆鷹目行以女手したんようもくおこなうにじょしゅをもってす」という言葉を思い出しました。
三輪徳寛という方が残した医学に携わる人へ向けた言葉だそうです。獅子のように動じない強い胆力、あらゆるものを見逃さない鷹の目、そして女性のようなやわらかく繊細な技術を以てことにあたりなさい、といった内容だと昔みたサイトには書いていました。(千葉大学のこちらのページに詳細が載っています。ヨーロッパから入った言葉みたいですね。)

高校生のころの私は、今以上に臆病で、世間知らずで、がさつで、強いものと賢いものにあこがれていました。
グリフォンや「獅胆鷹目行以女手」という言葉に、私はあこがれの何かを見た気がしました。

それからはずっと「利鷹」という名義を使っています。

今は「体は想像以上に頑丈だけど、あこがれたほどは強くも賢くもなってないな私……?」としみじみ考える訳ですが。
強くて、賢くて、やわらかい人。私のあこがれの形は多分ここなのだろうなと思います。

そしてそのあこがれを結局ずっと抱えたままだったわけです。
なにせ「頭が鷹で体が獅子「たか」むら「れお」」なんて名前を別名義にしちゃってますし。ついでに告白すると、もうひとつ名乗っていた別ジャンルのHNは「獅鷹」でした。
これこそ指さして笑え案件です。全然違う名前を名乗っておいて、掲げたあこがれは全く変えないままここまで来ました。

それならずっと昔からつきあってきた、利鷹という名前を大事にしようかな、と選んでつくった形がこのサイトです。
やらなくちゃいけないことも、やりたいことも、とにかくたくさんあって忙しいですが、今年ものんびりこの場所を育てていけたらなと思っています。

そういうわけで(どういうわけか)このサイトはとても雑多なサイトになります。

3年前、「広告代理店に入社して勉強しよう」と思えたのは、高村名義で活動していた時期に、いろんな方のウェブ制作のお手伝いをさせていただいたからでした。
おかげさまでWebディレクター兼フロントエンドエンジニア、今年で魔境4年目です。
まだまだ覚えないといけないことが山ほどありますが、蓄えたものをまたいろんな形で還元できないかなーと考えています。

と、いうわけで高村名義でやっていたように、ウェブ構築の話などもブログで書いていこうと思っています。
制作をお手伝いする時間が取れなくとも、勉強したものを守秘義務と義理に反しない程度にまとめて放出すれば、私も整理できるし、誰かの暇つぶしや調べごとのきっかけになるかもしれないし、もしかしたらウェブサイト作ろうとしている人の役に立つかもしれないし、うっかり閲覧数が伸びたら私にも広告収入が入るよ!!! これこそ円環の理ってやつです(違います)。

というわけで、このサイトは「腐女子が一次・二次創作かかわらず小説やイラストや漫画を載せたり、日記を書いたと思えば突然ウェブ制作について話を始めたり、調べごとをまとめたりする」という、方向性が迷子のサイトになっていきます。ライフログサイトを銘打ってるので仕方ないね。仕方ないか????

というわけでまとまりのないサイトになること請け合いのLEOGRAPHISMですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

12月、わたしたちは歳を重ね、仕事に追われ、クリスマスに紅まどんなを食べた。

タイトルにすべて書いた感がすごい。利鷹です。

2020年もあとわずかとなりましたが、皆様如何お過ごしでしょうか。
私は仕事を一部持ち帰りつつ、カレンダーの上ではクリスマスに仕事を納めて、爆睡、そして今という感じです。

いいタイミングだし1年を振り返ろうか、と思いましたが、記憶力に自信がないのでとりあえず12月を振り返ろうと思った次第です。

タイトルにすべて書いた感がすごいですが。
も、もう少し詳しく書こうと思います。

12月上旬、わたしたちは誕生日を迎えた

わたしたちというのは、私と旦那さんの二人を指します。お互いに12月上旬生まれ、土日はお休み(※私の場合は一応という注釈がつく)という環境なので、だいたいは近い土日で一緒にお祝いすることにしています。

そして今年は12/7、月曜日に有給を取って、な、なんと、三連休にしてしまったんですね……!

土曜日は比較的のんびり。明け方にじゃがいものポタージュをつくってもらったり、


朝に旦那さんへの誕生日プレゼントが届いたり、

好物のにんじん味ごはんをつくってもらったり、

お取り寄せで買った明太子が食卓に並んだり、

……食べ物の話ばっかりですね……?

我が家は私の家事スキルが乏しいのと、旦那さんがお料理好きなことがあって、日々のごはんは旦那さんの作るご飯が9割9分、あとは買ってきたり外食したりという感じです。誕生日に外食しようか、という話も出ましたが、今年はほとんどおうちでのごはんになりました。

旦那さんのごはん、めちゃくちゃ美味しいんだよな……だけどもっと楽してほしいし、好きなもの買ったり作ったりできるようにしたいな……ばりばり稼ごう……と思った誕生日でした。家事は苦手だけど、働くのは、今の職場でちょっと上達した気がするぞ!!

日曜日は共通の友人をまじえた三人でTRPGで遊んで、夜にステーキを食べて、「明日もお休みだぁ……」と言いながら休みました。

月曜日はケーキを二人で食べたあと、電車に乗って普段はいかないショッピングモールに行って、輸入食品をみたり、本屋さんを眺めたり、スタバに入って一休みしたりして過ごしました。近場でも普段いかないところにいくとおでかけ感があっていいねー、とふたりで話したりして、今年の誕生日はとてもよい誕生日だったなー、と思いながら火曜日を迎えました。

うん、お察しの通りだよ。そこからはずっと仕事のターンだ。

12月中旬~12月25日 年末進行の仕事に追われる

とにかく、ほんとに、忙しかった。
実は11月くらいから、やばい予感はしてたんですよ。ずっとお付き合いしているお客様のスケジュールがだいぶん押していて、その分の皺寄せがくるんじゃないかな……? とは予想してたんですよ。皺の深さが想定よりやばかっただけで。

新型コロナがきっかけで週の半分をリモートの勤務にさせてもらってるんですが、これと旦那さんのサポートがなかったらマジで倒れてましたね!!
体力的に死ぬのを回避するために土日に仕事持ち帰ったし、それでも平日2時くらいまで仕事してた日も何日かあったし、人手が足りなくて専門外の業務ぶっこまれたりしたし、何だったんだ今年の12月。2年前までうちの部署12月は閑散期って言われてたはずだぞ。

去年はスポット仕事入ってたから仕方がないとして、今年ほんとおかしい、12月に繁忙期みたいな働き方してるぞ。……えっと、来年以降もこんな感じになる気配がするし、というか閑散期と言われていた時期に軒並み追加の年次案件ぶちこまれてるぞ……? あれ? もしかして年中繁忙期みたいな状況になってないこれ???

旦那さんのサポートがなかったら乗り切れなかったな、と本当に思いつつ、来年からのことを考えると青ざめそうになるので、もっと効率的に仕事をさばけるようになろう……そして新しいプロジェクト立ち上げて、もっとお給料あげてもらう……あれ、仕事増やすつもりだな私???
……ええい、お金で買えない幸せも確かにあるけど、お金で支えられる幸せも大量にあるんだ!!!!
というわけで来年の仕事目標はワークライフバランスを整えることと年収アップです。

そしてクリスマス、持ち帰った仕事の合間に旦那さんと紅まどんなを食べた

そんな感じでお仕事に追われながらも、なんとか12/25に仕事納めをして(といいつつまだ持ち帰り仕事が残ってるんですが今は忘れておきます)、帰宅して晩御飯を食べた後、食べたんですよ。愛媛のすごい蜜柑、紅まどんなを。

見てた方も多いと思うんですが、ちょうど誕生日のお祝いをしてた頃に、ツイッターで紅まどんなについてのツイートがバズってたんですよ。そしてその紅まどんなの特売品が近所のスーパーに置いてあったということで、24日に旦那さんが買ってきてくれてたのです。

ところで旦那さんも私も食べるの大好き夫婦なんですが、実はそんなに果物が好きじゃなかったりします。食べれば「美味しいなー」とは感じるんですが、積極的に食べる習慣はあんまりない感じ。
お互い柑橘系はそんなに食べたいと思わない果物なんですが、バズってたから食べてみよっか、という感じでね。買ってきてくれたんですよ。

……、なんか、断面が、すごい。

「なんかもう切った瞬間から違う……」と呟いた旦那さんとふたりで、はい、ぺろっと2玉食べました。

美味しい……美味しかった……。ちょっと他の蜜柑を今後ふつうに食べられるのか不安になるくらい美味しかった……。
特売品でこれなら、最高級品の紅まどんな、どんな味になってしまうの……愛媛こわ……と思いました。

2020年は良い年だった

今年は新型コロナの影響で生活が変わって、仕事が爆発したり色々ありましたが、終わりよければすべてよし、というのはこういうことを言うのか、個人的には「あー、すごく良い年になったなー」と思える1年でした。引きこもり生活に適性があったのもでかいと思いますが、思いのほか充実した1年を過ごせました。

社会情勢や周りの色々を見ると、不安になってしまうようなことも多くありますが、まずは身の回りのことから、の精神で地に足をつけて来年も頑張ろうと思います。

もしかしたらまだ今年のうちにブログ書きにくるかもですが(だってもう冬休みだもんね!)(まだ持ち帰ってる仕事のことは忘れています)、とりあえずここで年末のご挨拶を。

皆様、今年もありがとうございました。どうか健やかに、よい年末をお過ごしください。

ご挨拶 ~アラサー既婚腐女子、本業がウェブ屋だから個人サイトもWordPressで自作する~

初めましての方も、そうでない方もこんにちは。利鷹です。

この度はできたてほやほやの当サイト「LEOGRAPHISM」にお越しいただき有難うございます。
まだまだコンテンツは少ないですが、のんびり続けていこうと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

さて。

Twitterの日常アカやPixivなどですでにご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、初めましての方向けに自己紹介やこのサイトについて書いて簡単に書いてみようと思います。

管理人の利鷹りおうについて

利鷹は九州出身、関西在住のアラサー既婚腐女子です。
旦那さん大好き勢なので日常アカでは旦那さんの話題が多め。旦那さんの強火担とは私のことだ。
好きなジャンルは刀剣乱舞、FF7、TOA、九龍妖魔學園紀、その他諸々。好みはあれど地雷は少なめ、夢も男女カプも美味しく頂ける雑食です。

本業は小さな広告代理店のウェブディレクター兼フロントエンドエンジニアです。
ウェブ解析をしたりワイヤーフレーム書いたり企画書書いたり見積書つくったりjavascriptの修正したりコーディングしたりPHP書いたり、とりあえず雑多にウェブ関係の仕事をしています。
これで業務内容のイメージが浮かぶ方、もしやご同類か? お疲れ様です、強く生きましょう。

脱線しました。

このサイトを作った経緯

利鷹の同人活動は、中学時代に作った
††††こんな感じの個人サイト††††† が始まりでした。
初めのころは好きなジャンルのイラストを載せるだけのシンプルなサイトでしたが、なんかHTMLというのを覚えると色々できるらしいぞ?
と、気が付いてからは、黒背景に赤い文字、中二病の症状を詰め込んだ、どこにでもあるウェブサイトを作っていました。
ちょっと様相が変わってきたのが高校時代。CSSとかいうやつを覚え始めてからが何かの間違い。

「えー、サイト作るのって、たーのしいー!」

同人活動よりウェブサイト作る方が楽しくなってしまったんですね。

というわけで、高校時代は創作活動こそ続けていたものの、サイトを作ってはやめ作ってはやめを繰り返すサイト構築ジャンキーと化していた訳です。
しかしサイトを作るまではいいものの、そのあとの運営や管理がおっくうで、長続きしないのが常でした。
特に大学生になってからは同人活動の場がPixivやTwitterなどのSNSに移ってしまい、ますますその傾向は顕著になりました。
別名義で開設したサイトもいくつかあったりするんですが、やっぱり手入れは続かないまま今に至ります。

ところで話は変わりますが、利鷹は都内某大学の文学部に所属していました。
そして「学内で一番勉強しないやつらのたまり場」と囁かれていた専修コースに飛び込んで、バイトに明け暮れ、資格らしい資格も取らず、まともに就活しないまま卒業して実家に戻った過去があります。
実家に帰り、1年ほどのんびりフリーター生活をしていた私は、バイト先で知り合ったシステム会社の社長に声をかけられました。

私のウェブ屋としての生活はそこからスタートしました。

趣味で覚えただけの知識を足掛かりに、いろんな人にコーディングやプログラミングを教えてもらいながら、いつのまにか10年近くこの業界にかかわっています。
ウェブサイト制作や通販サイトの運営など、思えばけっこう色々な現場に携わらせてもらいました。

「……いまなら自分の同人サイトも、もう少しまともに育ててやれるんじゃなかろうか?」

ここまでやってきて、ようやくそういう気持ちになったので、本業の傍らぽちぽちとこのサイトを作った次第です。
色々こだわりすぎて予定よりだいぶ時間がかかってしまいましたが、その分むかし作ったサイトよりは管理も更新もしやすくなったかな、と思ってます。
これで広告収入もつくようになったらばっちりモチベも保てるんじゃないかな!!

という感じでゆるーく始めたLEOGRAPHISM。
(主に管理人の)くせが強いサイトですが、のんびり長くお付き合いいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

ところで記事や作品の下部にあるハートマークはいわゆる「いいねボタン」です。

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